冷たい雨が降ったかと思うと、うららかな小春日和の日があるというように、目まぐるしく動きながら、季節は推移していく。敷地内には欅の落ち葉が敷き詰められ、猫が原はプラタナスの葉が舞っている。数日前、朝起きたら、ヴェランダに紅葉した桜の葉っぱが一枚落ちていた。
数年前にはこの時期に雪が降ったこともあるが、今年は気温は高めに、そしていつもよりゆっくりゆっくりと冬に向かっているようだ。
昨日はこんな奇妙な生活を送っていることに情けなく、悲しい思いがして、落涙こそしなかったけど、目の端に涙が浮かんでしまって急いで拭った。
いろんな意味でワームと夢から有形無形の心理的圧迫を受けていて、それは人にはわかってもらえない、病気だとしか思われない苦しさがあって、こんな目にあっているのは世界広しといえども私ぐらいだろうと思って(口に出したわけではない、もちろん)いると、ワームがすぐさま「世界にひとり」「世界にひとり」と子供たちのハヤシ声でちゃちゃを入れる。(ちゃちゃというような可愛いものではないけど)
古文などでよく主人公が「どんな因縁があってこのような目に会うのだろう、こういうくすしきことどもの苦しさも、、、」などと呟くことをふと思い出すが、これは仏教的厭世観みたいなものだろうと気持ちを立て直す。
このところのコロナや戦争といったことを思うと、もちろん歴史的にはこんなことは過去にいくらでもあったことなので驚くようなことではないのだが、なんだかアポカリプスの時代に入ったような感じがする。
アポカリプスを読むと、一語一句が身に沁みる。というか、私は聖書の中ですこぶる絵画的なイメージを喚起するので、この文書が昔から好きなのである。不思議な動物や、口を開いて宣言をする子羊や、まるで宝石店のようないろいろな貴石のありさまや。
私がワームや夢のことを書いても話しても頭がおかしいとしか思われないけど、福音記者ヨハネのことを誰もスキゾフレニアとは言うことはないのに。
子分