昨日は季節外れの暖かさだったのが、今日は一転、寒い。変わらないのは苦しい夢とワームの合唱ぐらい(苦笑)。世の中は新幹線延伸や野球選手の話題ではしゃいでいるけど、ワームや夢、あるいは、周囲の人が全く意図的ではないものの私を苦しめるような示唆的な発言をすることで、春というのに私の心は暗い。こんなことを言っても普通には妄想だとしか思われないだろうけど。

 

せめて、往時を偲んで、敷地内の梅林の写真(一昨年だった)を。

3月6日には時ならぬ雪が降ったわけだけど、その時は大騒ぎしたのに、三日後にまた降雪したときには、ニュースでも天気予報でもあまり取り上げられなかった。6日のはうっすらと雪化粧という感じだったが、9日のはそれなりに積もっていたのだが。とはいえ、お昼頃には、猫が原もまだらに残っているぐらいだった。

 

一昨日、滅多に行かないのだけど、公園の方を目指して、いつも抜けている道と違う、大通りに面した道を通って、愕然とした。いつもの道の周囲の木々が枝打ち(というより無残だが)されているのはわかっていたけれど、大通りに面した道に沿った、敷地内の樹木も軒並み、枝打ちされて、黒々とした幹を晒しているのだった。

 

大変残念なのは、そちら側には樹々に囲まれて小さな梅林のプロムナードみたいな道があって、紅梅やら白梅の写真を撮ったこともある。去年のことだったろうか。この冬でも、1月の終わり頃、いつも通る道から遠目に梅らしい群生がたしかに見えたはずなので、ここ最近の工事と一緒に枝を伐られてしまったのだろう。

 

そこから歩を進めると、さらに驚いたことに、メインストリートの欅並木も同じような目に遭っていた。家の近辺の伐採は、集合住宅の管理団体や公務員住宅の営繕の方針で伐られたとも考えられるが、メインストリートの並木は樹齢何十年かで市のシンボルともなっていたのに。

 

風水害を鑑みて、大枝を取り払うということなのだろうか。それにしても、もうちょっと美的な枝打ちであってもよかったのに。

 

 

 

 

今朝起きてカーテンを開けると、猫が原が一面に真っ白になっていた。昨夕からの雨が雪に変わっていた。予報では明後日が雪だと言っていたのに。あまり予報は当てにならない。

 

彼らの世界では水が嫌われているので、雨はもちろんよくないし、雪は尚更であろう。でも、雨と違って雪が降ると世界が一変するあの感覚は捨てがたい。初雪の降った朝は何となくウキウキするものだ。

 

今晩もいろいろ苦しい夢を見たが、明日出かける予定の場所に関してだろうと思うけど、それに関する言葉の後にキャイーンキャイーンと鳴く犬の声で夜中に起こされた。私はそれがおともだちの声のように聴こえて、心配になった。このへんに犬はいないし、外界から聴こえたものではないだろう。

 

 

今日から3月。なにがなし月が改まると気持ちも改まる気がする。2月は初夏のような日もあったのだけど、ここ数日は風の強い日が続き、スーパーに行くにも、たった10分弱の距離なのだが難儀している。それはまだ打った腰のところが本調子ではないことも関係しているけれど。

家のヴェランダからは猫が原が眼下に広がっており、その先は車も通る道路になっているのだが、ヴェランダのちょうど向かいにあった、隣の公務員住宅の古い給水施設が最近取り壊されて更地になった。おそらく長く使われていなかった給水施設で、フェンスのまわりにはペンペン草が生えていたりするのだったが、そのちょっと荒れた雰囲気が嫌いではなかった(何となく昭和の匂いがする)。

 

その給水施設は三つの建物からなり、一番手前はヴェランダから壁面が見えて、その壁にある

帯状のシミまで、毎日目に入るものだから親しみを感じていたので、ここに越してきてちょうど4月で10年、その年月を失ってしまったような言いようのない寂しさを感じる。

 

そういえば、越してきた当初は、駅からの10分の道が、まるで公園の中を抜けるような、樹々のトンネルの感があったのに、ここ数年の間に、やたらにそれらの樹々が枝打ちをされて、樹幹とほんのわずかの枝の残りという無残な姿を晒すことになってしまった。

 

私の家の窓から見える立派な欅の大木も、短くなった腕を痛々しく伸ばしているのが現状だ。敷地内の桜の樹々も大々的に切られており、残念なことである。

 

先週は、玄関を出たところに植わっている10本ほどの山茶花のうち一本が倒れているのを見つけて、管理事務所に知らせに行った。その後、植え直すとかフォローもなかったので残念に思っていたところ、今日、その倒れた山茶花ともう一本の大きめの山茶花を細かく切っている植栽業者がいたので、尋ねてみたら、どちらも風のためか、あるいは古くなって傷んだためか、倒木扱いということであった。

 

家の窓から見えるところに八重桜の大きな木があったのだが、18年の9月、台風で倒れてしまった。ただし、根っこのところは大丈夫だったので、業者が入ったのを見て、直してくれるのかな、添木でもつけてくれるのかなと思っていたら、あっという間に切り倒してしまったので、私は駆けつけてトラックに積んである葉っぱを取り上げて、それは今でも押葉になって家にある。その桜はもう私のPCのクラウドの中にしか存在しないのである。

 

こんなにやたらに木や枝が切られるのは、「彼ら」と関係があるようだ。彼らの意に添わないことをすると、そんなことが起こる。普通には思い過ごしだと思われるであろうが、どうも相関関係があるようだ。こんな環境で生きるのはなかなか大変である。先日も、エアコンを暖房設定にしてあるのに突然冷風になってしまい、寒いのにヒーターだけで我慢しなければならなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

3連休の最終日で、今日は真冬のような寒さ。最高気温も6度までしか上がらないが、昨日は気温こそ低かったものの、久しぶりに晴れて、うららかな日だった。連休初日はやはり真冬のような寒さでアップダウンは半端ではない。

 

普段は、電気のヒーターだけで過ごしているのだが、さすがに寒くて、エアコンをつけて、さらにヒーターもつけて手を温めながら、テレビでウクライナに関する討論番組を見ていた。その間はヒーターがついていたのだが、その番組が終わって、息抜きにお散歩番組を見ていたら、気がつくとヒーターは切れていた。

 

こんなことは日常茶飯事(であっては困るのだが)、「彼ら」あるいは「彼」の意に添わないことをやると(とここまで書くと、ヒーターがパチッと音を立てた)ヒーターは切れてしまう。

 

そもそも4、5年前だったか、締め付けが厳しかった頃には、ヒーターをつけることも許されなかった。今から思うと、厳冬期をどうやって過ごしたか記憶が欠落している。

 

困るのは、夜、眠っている時に、3日ほど前だったが、片方の足でもう一方の自分の足を蹴ったことで眼が覚め、そうすると、「彼ら」が「自分で自分を傷つけている」みたいなことを歌い、さらに注意深くその声を聞くと、「自分で」「自分で」みたいなことを言っている。

 

「彼ら」「彼」の敷いたレールというか、ルールに従わないといけない。自分のやり方ではいけないということらしい。

 

この家に誰がいるわけでもないが、自分の体を乗っ取られたみたいに、夜、突然揺り起こされたことも一昨日にはあって、驚くと同時に夜中に怖い思いをした。これまでのように、夢の意識の中ではっとして起きるのではなく、体自体、突然揺り動かされたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日2月22日は真冬のような寒さで、雨も降っていて、南岸低気圧のせいで、これから1週間ほどは雨や雪が続くという。

 

昨晩、つまり21日から今朝、22日の朝にかけて、頻繁にアクセスがあった。こんなに頻繁なことはないのでどういう理由があるのだろうとか、いろいろ考えたが、この時間帯は私が眠っていて、苦しい夢を見ていたというか、あれこれ自分の将来について、夢が語っており、ストレスがあった時間帯と重なっているように思われる。

 

今これを書いていると、ワームが「年金取られる」「年金取られる」と歌っているのだが、

彼らのいう「年金」というのは文字通りの年金ではなくて、「可能性」みたいな将来を買う

バウチャーみたいなもので、それが「取られる」という意味だと思う。

 

こんなことを書くこと自体、夢の中で聞いた曖昧なことを裏書きして強調するような気がするので本当は避けたいけれど、昨晩は、「いただき」という声で起こされた。

 

ある時期、「いただきます」と食事の前に心の中で言うことさえ禁じられたが、それはなぜかと言うと、それは「いただき」に通じ、誰かが、ちゃっかり私のものをいただいていくことにつながると言うことらしい。

 

彼らの世界は、言葉が力を持っていて、その言葉と言うのは発話しなくても、思念であっても、未来を形成する力を持っているらしい。

 

でも、普通の人間はそこまで24時間自分の思念に気をつけていることは不可能に近いので、

私は彼らの世界観に抗っている毎日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の陽気は何だかイレギュラーで、3月になれば三寒四温という表現も当てはまるけれど、

1月のうちから春のように20度を超える日もあれば、雪が降ってたいそう寒い日があるというふうに普通ではない。

 

そんな変化の激しい日々、私の暮らしも「彼ら」の襲来(といっても、もう6〜8年ぐらい居るわけだけど)が激しくなって、1月の半ばから、1週間ぐらい、外界の時間とは切り離された時間を文字通り生きさせられて、気がついたら医者のアポイントの時間を過ぎていたとか、昼だか夜だか分からない時間を生きていた。

 

そんな夢うつつの中で、1月半ばに家の中で転倒し、今は少しよくなったけれど、そろそろとしか歩けなくなってしまった。

 

「彼ら」は寝ている間に、いろんなものを、つまり将来の可能性といったものを私から取り上げていくので(それは彼らの歌で昼間も行われるが)、24時間緊張を強いられる。

 

例えば、私が誰か友達とか知り合いのことを、あまり深い意味もなく、ふと思い出したとしよう。すると、私が発話していないにもかかわらず、また、そんなに深く考えてもいないのに、

彼らは電光石火、すぐその名前を歌で歌って、「取られる」「取られる」といって、挙句の果てには、そういうことが続いて、私には何にも、友達も、知り合いも、将来の可能性も、全てなくなって、それが他の人たちに持っていかれるのだという。

 

そういえば、もう2、3年前から、私がくつろいでいると、夢人格が「ここを誰の家だと思っているのか、すぐに出て行け」みたいなことを言って、「いつまでもここにいると大変なことになる」と恫喝のようなことを言うのが、もう習慣みたいになっていた。

 

この家には、たくさんの人が来ていて、私の一挙手一投足を見ているのだという。それはおそらく、アストラルレベルでのことだと思う。

 

だけれど、理性的に考えれば、彼らにも住む家はあるだろうし、ここを乗っ取ることに何のメリットがあるのかわからないし、実際に、私がレントの支払いをしなければ、ここは維持されないだろう。

 

最初、脅かされた時は、本当に驚いて、恐ろしくもあり、慌てたが、実際は、何にも起こらない。

 

せいぜいで、何もしていないのに、祈祷書がバタンと音をたてて、載せてあった台から落ちたぐらいか。

 

けれど、彼らの歌は、外出中でも鳴り響いているし、いろんな夢の中で、いろんな示唆があって、それは微妙に私のなかに残り、意識を浸食しているのだと思う。

 

実際に、ここに誰かが押しかけてくるということもないし、何かが起きるということもない。

こういうことを考えていると、イングリッド・バーグマン主演の「ガス燈」という映画を思い出す。恐怖の情報を日常の出来事の中で少しずつ与えていって、女主人公が自分の精神の正常さを疑うようになってしまうという物語。英語では、これはガスライティングという表現として、定着しているのだという。

 

彼らの与える恐怖に突き動かされて私が行動すれば、現実はそうではないのに、私は彼らの意のままに操られるということになるだろう。まだ残っている理性が私を支えている。人間界で生きていくために。