昨日の天候はここでは雷二回と30分ぐらいの大雨だったけれど、首都圏でも雹が降るところがあったようだ。5、6月から既に30度超えの気温がたびたびあった昨年とは異なり、低温気味の日が多い今年。去年よりサクランボとか農作物の成長は順調らしいし、湿度も低くて気温も快適だが、低いのが続くと冷夏なのではと、要らぬ心配をしてしまう。
土曜日の静かな朝。といっても私には曜日はあまり関係ないけれど。
曜日といえば、ここに越してきて翌年だったか、N堂へ行くのも何かと鬱陶しいので、同じぐらいの時間で行けて、ここからのアクセスも悪くない山手へ一度行ったことがあった。
玄関を入ったら、奉事はすでに始まっていたが、マトシカと思しき若めの女性とカソックの輔祭さんににこやかにお出迎えされたので、ちょっとびっくりした。ずいぶん丁寧なのだなと。
低学年の小学生が二人、堂内にいたので、お友達と遊びたい年齢だろうにずいぶん感心な子たちだなあと思っていたら、神父夫妻の娘たちであった。笑
奉事の後は恒例らしく食事会になっていて、お誘いがあったので参加して、そのあとは教会報発送だったので、封入のお手伝いをして雑談などしたりした。
直近でN堂のM長輔祭(最近リタイアした)が何か講演かお話会で訪問したらしく、教会とのご縁、自分の人生にいろいろなものをもたらしたという内容らしく、しかし、女性陣がなんだか含み笑いをしていたのが印象に残った。彼の職業生活もN堂のご縁で、という内容だったらしいが。私の記憶では、蕎麦屋で働いていたのを主教がギリシャ大使館に紹介したというものだったけど。
お昼の支度もお皿洗いも女性だけで、その間男性陣が神父を囲んで談笑していたりするので、こういう小さな教会は、それはそれで役割分担とか人間関係の桎梏があって大変なのかも、クールに見れば、定額献金者、奉仕者を一人でも多く獲得したいのが本音?などと感じた。
ずいぶん後になって、教会での葬儀の収入はいったん教団に上納し、そこから神父への謝礼が支払われるというシステムになっていることを知って、ああ、そういえばNの教会報の執事会議事欄に、葬儀収入と神父の「取り分」についての記載があったなあ、わざわざ議事になったのはなぜなんだろうと思ったら、この山手の司祭がこの上納をせず、自教会、(あるいは自分?)の収入にしていたことが問題になったと知った。
聞いた話では、娘さんたちの進学費用に充てるためなんじゃないの、ということだったが。
4年前ぐらいにまず司祭館が、その次に聖堂が改装されて立派になってお披露目があった。司祭館が先だったので問題になったりしたと聞く。聖堂はギリシャに惚れ込んでツアーとかやっている神父の嗜好もあってか、シマンドロンとかもある、オールギリシャスタイルだとか。
実は、研究者の書いたものを読むと、「山手」は歴史的経緯から、かなりの黒歴史がある。坂本龍馬のいとことして有名な幕末志士親子が、そもそも信徒が寄進した、四谷に当時あった教会を彼らの一存でカトリック教会に売り払って、その資金で新教会を購入し、問題が発覚しても居座り続けたというもの。
この件は調べてみたら、最近発行された山手の教会史にさらっとだが触れてある。この幕末志士も教会では美談になっていて、漫画にもなっており、一般にも有名だし、聖堂拝観の担当者も時々、昔がたりをしていたりするが、神官の家に婿入りしたのにクリスチャンになって家も出たので、夫人は一族に責められて狂ってしまったとか。当時の国士タイプにありがちな破天荒さだったのだろう。
さて、昨年7月、もうこれが最初で最後と決心して、信徒総会へ出てみた。会計報告などがあるはずだからである。もちろん山手の「横取り」みたいなリアルな話はなかったが、コロナで教会での葬儀が激減、また最近は葬祭業でも「小さなお葬式」が広まって、それをなんとか食い止めるために、大聖堂での葬儀を50万、小規模を希望する人のために、洗礼聖堂を30万という二段階方式にしたとのこと。(これは会場費のみで、葬儀社への出費はまた別)
ある人から聞いたが、葬儀に輔祭なしだったと苦情を言ったら、「輔祭つき」は申請しないとならないし、これも費用は別途ということらしい。
地獄の沙汰もナントカで総会自体はいろいろ勉強になったが、肝心の会計報告は概要のようなもので、詳しく質疑応答があるという場でもなく、そういう慣行なのだろうが、ガッカリ。あくまでもN堂教会の話であって、不動産収入などはかなりあるはずの教団の財政面は分からなかった。
一つ興味深く思ったのは、信者統計で、「離反1名」という数字があり、「離反」というのはただ「来なくなった」というのではなく、なんらかの「意思表示」をしたということなのか。
報告の後の親睦会というかパーティーのようなもので話をした女性が、代子の青年がウクライナ教会へ、次にルーマニア教会へ変えて悩ましいという話していたから、そういった「転籍」ということなのかもしれない。「離反」というのは「破門」というのとも違うだろうし、自分からということだと思う。
主教はスピーチで「役員は若返りをしないとダメだ」と言って、財務委員長のKさん、あなたもたいそうな年なのだから、などと言っていたが、まずは一言ねぎらいの言葉を言ってから、交代を促すのがマナーじゃないかな、と感じた。この人はここで権力者だが、結局田舎のおじさん以上のものではないのでは、と。そのK氏はその年のうちに亡くなった。ヨット事故で誰か亡くなったとか、自分が死地に遭ったとか、何かそういう動機で信徒になったと聞いたことがある。
まあ、そんなこんなで、教勢拡大のための会議などを開いているが、政治の世界と同じで、古い家系の人たちが自分たちと教団のためにだけやっていて視野狭窄に陥っているのでは、一万人から増加するのは難しいだろうと思う。婦人会で散々嫌な目にあった自分としては、あの会のことも主教の”喜び組”と心のうちで呼んでいる。主教の聖名日の贈り物を議論するのに時間をかけたり、そんなことばっかり。
河童神父がある意味異色の人であったから、あの頃、若い人たちが集まっていたのだろう。神父がそういう指導をしないから、当時は定額などしたこともなかったし。それだけに残った人はほとんどいないが、勢い自体はあったかもしれない。
河童師は杉並のT女子大である時期から教えるようになって、私が彼に「講義を聞いて、その後正教徒になった人がいますか」と特に意図なく訊ねたら、「それはないよ。だってそんなのいやらしくない?」と返されて「そうかなあ」と不思議に思ったことがある。バリバリの宣教講話ではないわけだから、いやらしくはないと思うのだが。
私は昔から彼が「神様のために」本を書いていると言うと、なんとなくいらっとしたものだったが、結局思うのは、彼が書いた一番よい本は、処女作の「日曜日」だと感じる。定本になっている「ギリシャ正教」などは教会印刷物だがワークブックまであったりするが、「日曜日」は彼がまだ純粋であった時代の、アカデミックに近い作品だと思う。ある時、古書を探したが出物が皆無で、そういうことは時々あるが、持ち主が手放さない良本であることが多い。まあ、部数も少なかったのだろうけど。
それでも、その若い日、河童師はフルートを練習して趣味になりかけていたが、動機を聞いたら、「こういうのをやっていないと信徒いじめをしちゃうからね」と言っていた。
私はひと頃準家族のようになっていて、AUNTY Aなどと呼ばれて日曜日の夕ご飯はいつも一緒だったし、総じてよくしてもらっていたと思うが、いじめられた人もいるのだろうか。それはあまりないと思うけど。confessionかな?