今日はまだ夏至ではないけれど、本当に日の出が早く、日の入りが遅くなったのを実感する。

でも、そのうちまた昼間の時間が少しずつ短かくなっていくことを考えると、一抹の淋しさを感じてしまう。こんな風に先取りをしつつ心が暗くなってしまうのはよくない傾向かもしれないが、2017年以降、ワームの世界に身を置いてきたことがそんな感じ方にさせてしまうのだろう。

 

ワームではなく、小さな神々と言い直しても良い。彼らが最初やってきたときはそう名乗っていたから。

 

この大きな敷地内にあるいろいろなものが変貌してしまった。大枝を差しかけてまるで屋根のようだった桜の大樹が伐られてしまった。ふだん通らない場所なので桜の季節になってようやく気がついて、寂しい気持ちになった。先週あたりは車止めに並べてあった一対のサツキの大きな鉢が消えていた。別の場所にあった観葉植物的な背丈の2メートルぐらいの木の鉢植えもなくなって、鉢底を見せて伏せられていた。

 

私自身の生活の中でもパラレルなことが起こっている。気持ちが悪いほどだ。「彼ら」は体の手入れのようなことを嫌う。昨日は駅のホームで電車を待っていたら、向かいのホームにいる

おじさんのような人が足首をぐるぐる回していた。確かに私は肩を回したり、足首を回したり、体操というほどではないけれど、凝りを取る動作をすることはある。そういうエコーのような所作を街で遭遇する見知らぬ人が真似をするのが日常なのである。

 

 

 

新緑の5月を過ぎて、いよいよ周囲の樹木の緑が濃くなってきた。窓からは風に揺れる葉叢が

見える。

このところ小鳥たちが樹々の間を飛び交うさまが頻繁に見られるようになった。別に外を常時見ているわけではないのだけど、読書などしていてふと目の端を何かが横切ったと思って目を上げると、小鳥たちである。

いちばんダイナミックな飛翔をしているのが、オナガ。綺麗な尻尾で舵取りをしながら、こちらの枝からあちらの枝へと飛び交っている。先ほどなどは、ケヤキの枝の先の葉っぱの部分にぶら下がって遊んでいたり。ひょうきんものか。

昨日から南海上で発生した台風のせいで、曇天となり、今日はこれから一日雨模様になるようである。こういうことを書くだけでも、「彼ら」は空模様と人生模様がパラレルになるぞ、と脅かしのようなことを言うので、以前は躊躇するところがあった。なにしろこういった警告といえば親切めかして聞こえるが、脅かしという方が当たるだろう。なぜなら、こういう言説に負けていては、表現と言うことが不可能になってしまうからである。

 

5月ももうそろそろ終わりだが、15日ぐらいからハイプレッシャー状態が更に酷くなって、

いろいろな私の無形のプロパティが「後ろ向きの人生」という「彼ら」の囃子言葉により、

そうした可能性に背を向けられるといった内容のことを、断続的な睡眠を挟んで夜の時間に

語りかけられるのである。

 

私はそれに対して抵抗するために、「そうならない」「それは違う」といった内容を、彼らの囃子言葉に否定辞を加えることによって修正しているが、それが延々数時間も続くと、疲れてしまい、もうこういうことにいちいち取り合っていては体が持たないということを体感し(さらに理性的に考えても合理性を欠いている)、設定解除の一言をもって止めるのである。

 

夢人格という呼び名を私は使ってきたが、ワームの総帥であるところの彼は信じられないぐらい巧妙なやり方で、手をかえ品をかえ、accuseの手を緩めない。4月の頃にはまだそれが表面的にはフレンドリーな内容を囁くと思えば(お前を助ける、といったような)、それを巧妙にひっくり返してお前はまた騙されたと言うやり方であったが、最近は夢人格と私がいうと、その「人格」という部分をパーソナリティという意味でそこだけ取り出して、私の知人みたいなものにくっつけたりするのである。

 

言葉を操ることに巧みであり、ああいえばこういう、的な発想を瞬時に行う彼らに抗するには、本当に多大のエネルギーが必要である。何か言えば逆手にとって逆襲されるので、それを見越して発言すれば、それをさらに一枚上手にとって、本当はストレートな表現にとどまっているのに、みたいな、やり方である。

 

今の私は、正常な生活に復帰すべく、彼らの洗脳を一つ一つ解いていっているが、もう6年もこういったシ思考のシステムに晒されてきたので、「巻き戻し」をしているが、単純に機械的に巻き戻しするといった風にはなかなかならないのが大変である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1週間から10日ぐらい前から状況がハイプレッシャーになったと言うか、ガラリと家の中の空気が変わって、夜になると「彼ら」の歌声が大きくなったり、あるいは遠ざかったり、さらにはメインキャラクターの声がおどろおどろしい息遣いになって喘ぐような瀕死の声が響いたりと、夜は恐ろしい時間になった。その声は声だけなのだが、眠っている私の顔に大きな空気の円盤が覆いかぶさるような圧迫感があり、私は息を殺して止むのを待っているしかない状態だった。

 

そうして朝まで延々と質問やら譴責があり、それに答えると、その答えを逆手にとってさらに

別種の譴責になったりと、止まるところを知らない。いわゆる言質をとったり、あるいは、余裕がないので素直に答えていると、想定外の反転した、はぐらかした言葉が返ってくる。疲れて合間合間に眠るだけである。だからこの1週間あたりは不眠状態がずっと続いている。

 

誰に話すとしても俄に信じられない話で、また証明の仕様もない(彼らの声は私にしか聞こえない)のであるが、「みんな」というのはどれぐらいの人数なのかはわからないが、家のなかに居て、私の一挙手一投足をじっと見つめているのだそうだ。私には「みんな」は見えないので、いわゆるアストラルボディーみたいな形で家に来ているのかと思ったりする。

 

はっきりいえば、こんな状況が続けば睡眠不足と恐怖で心を病むところへ至ってしまうと恐れている。昼間でも(今がそうだが)家の中は大音響でライブハウスみたいな状況で、それを逃れて外に買い物やカフェに行くと、出かける間際まで、「何何を失う、これこれを失う」という声が響く。

 

私が恐れるのはこれに耐えられなくなって、究極の選択に走ってしまうことである。それは避けなければならないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年は開花が遅かったソメイヨシノは意外に長持ちして、ようやく葉桜になったところだけれど、3日前ぐらいから窓から見えるところにある八重桜が一つ二つと咲き始めて、すぐに半分ぐらい、花をつけている。また、猫が原の、少し離れた、右手にある大きな八重桜も5分咲きぐらいになってきた。春爛漫。

今年は3月になってから気温が低い日が多くて、春の足音が遅い。三寒四温と言うけれど、こんなに定まらないお天気なのも珍しいことだ。このところ、おともだちの住む街のお花のニュースが連日放送されるので、懐かしく見ている。と言っても、私が訪れたのはその季節ではないのだけど。

 

皆、そぞろ歩きをしているのが好ましく、私も静かなところで花を愛でたいものだと思う。

 

有名な写真家らしいけれど、記念堂を背景に、手前に湖面に張り出した枝が映っている、アングルの綺麗なグリーティングカードを訪問したときに買った。今でもとても気に入っているものだ。もうあれから16年も経ったのだなあ、と。

 

 

 

昨日は季節外れの暖かさだったのが、今日は一転、寒い。変わらないのは苦しい夢とワームの合唱ぐらい(苦笑)。世の中は新幹線延伸や野球選手の話題ではしゃいでいるけど、ワームや夢、あるいは、周囲の人が全く意図的ではないものの私を苦しめるような示唆的な発言をすることで、春というのに私の心は暗い。こんなことを言っても普通には妄想だとしか思われないだろうけど。

 

せめて、往時を偲んで、敷地内の梅林の写真(一昨年だった)を。