今日2月22日は真冬のような寒さで、雨も降っていて、南岸低気圧のせいで、これから1週間ほどは雨や雪が続くという。

 

昨晩、つまり21日から今朝、22日の朝にかけて、頻繁にアクセスがあった。こんなに頻繁なことはないのでどういう理由があるのだろうとか、いろいろ考えたが、この時間帯は私が眠っていて、苦しい夢を見ていたというか、あれこれ自分の将来について、夢が語っており、ストレスがあった時間帯と重なっているように思われる。

 

今これを書いていると、ワームが「年金取られる」「年金取られる」と歌っているのだが、

彼らのいう「年金」というのは文字通りの年金ではなくて、「可能性」みたいな将来を買う

バウチャーみたいなもので、それが「取られる」という意味だと思う。

 

こんなことを書くこと自体、夢の中で聞いた曖昧なことを裏書きして強調するような気がするので本当は避けたいけれど、昨晩は、「いただき」という声で起こされた。

 

ある時期、「いただきます」と食事の前に心の中で言うことさえ禁じられたが、それはなぜかと言うと、それは「いただき」に通じ、誰かが、ちゃっかり私のものをいただいていくことにつながると言うことらしい。

 

彼らの世界は、言葉が力を持っていて、その言葉と言うのは発話しなくても、思念であっても、未来を形成する力を持っているらしい。

 

でも、普通の人間はそこまで24時間自分の思念に気をつけていることは不可能に近いので、

私は彼らの世界観に抗っている毎日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の陽気は何だかイレギュラーで、3月になれば三寒四温という表現も当てはまるけれど、

1月のうちから春のように20度を超える日もあれば、雪が降ってたいそう寒い日があるというふうに普通ではない。

 

そんな変化の激しい日々、私の暮らしも「彼ら」の襲来(といっても、もう6〜8年ぐらい居るわけだけど)が激しくなって、1月の半ばから、1週間ぐらい、外界の時間とは切り離された時間を文字通り生きさせられて、気がついたら医者のアポイントの時間を過ぎていたとか、昼だか夜だか分からない時間を生きていた。

 

そんな夢うつつの中で、1月半ばに家の中で転倒し、今は少しよくなったけれど、そろそろとしか歩けなくなってしまった。

 

「彼ら」は寝ている間に、いろんなものを、つまり将来の可能性といったものを私から取り上げていくので(それは彼らの歌で昼間も行われるが)、24時間緊張を強いられる。

 

例えば、私が誰か友達とか知り合いのことを、あまり深い意味もなく、ふと思い出したとしよう。すると、私が発話していないにもかかわらず、また、そんなに深く考えてもいないのに、

彼らは電光石火、すぐその名前を歌で歌って、「取られる」「取られる」といって、挙句の果てには、そういうことが続いて、私には何にも、友達も、知り合いも、将来の可能性も、全てなくなって、それが他の人たちに持っていかれるのだという。

 

そういえば、もう2、3年前から、私がくつろいでいると、夢人格が「ここを誰の家だと思っているのか、すぐに出て行け」みたいなことを言って、「いつまでもここにいると大変なことになる」と恫喝のようなことを言うのが、もう習慣みたいになっていた。

 

この家には、たくさんの人が来ていて、私の一挙手一投足を見ているのだという。それはおそらく、アストラルレベルでのことだと思う。

 

だけれど、理性的に考えれば、彼らにも住む家はあるだろうし、ここを乗っ取ることに何のメリットがあるのかわからないし、実際に、私がレントの支払いをしなければ、ここは維持されないだろう。

 

最初、脅かされた時は、本当に驚いて、恐ろしくもあり、慌てたが、実際は、何にも起こらない。

 

せいぜいで、何もしていないのに、祈祷書がバタンと音をたてて、載せてあった台から落ちたぐらいか。

 

けれど、彼らの歌は、外出中でも鳴り響いているし、いろんな夢の中で、いろんな示唆があって、それは微妙に私のなかに残り、意識を浸食しているのだと思う。

 

実際に、ここに誰かが押しかけてくるということもないし、何かが起きるということもない。

こういうことを考えていると、イングリッド・バーグマン主演の「ガス燈」という映画を思い出す。恐怖の情報を日常の出来事の中で少しずつ与えていって、女主人公が自分の精神の正常さを疑うようになってしまうという物語。英語では、これはガスライティングという表現として、定着しているのだという。

 

彼らの与える恐怖に突き動かされて私が行動すれば、現実はそうではないのに、私は彼らの意のままに操られるということになるだろう。まだ残っている理性が私を支えている。人間界で生きていくために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このブログのアクセスは毎日チェックしているが、めったにないことだけど、ログインを要求してくる画面になることがある。今、朝の5時で開けたらそうなっていた。

 

そうなるといつも、なんだか、おともだちと遠くなってしまったのかしら、とふと不安になったりして、急いでその気持ちを打ち消し、IDやPWのメモを探してログインした。

 

昨日の早朝はおともだちと近くなったような出来事があって、嬉しかったけど。

 

12月10日に何かあるようなオーメンがあったけど、確かに、ひどく疲れやすかったり、いろんな行き違いが生じたりした。

 

 

朝から晩まで、何をしても、人生苦しむ、人生苦しむと脳内で歌われたら、疲れないでいられるだろうか。じゃあ、と、反対のことをしてみても同じ。

 

 

毎朝のことだけど、明け方うとうとしている時に、いろんな考えやイメージが次々と現れては消えていく時間帯が、私を暗い気持ちにさせる。今日は、これからの季節、クリスマスや特にお正月に一人でいることを考えて憂鬱になった。どこの家に行くあてもないし、誰かが家にくるあてもない。

 

最近は、夢人格が禁止していると思われるものを食べたり飲んだり、特に外食すると、腹痛に苦しむようになった。カフェで飲み物を飲んでもお店に盲人が入ってきたり、、、とオーメンが激しい。

 

10月のある晩に、11:40という数字を見た。これは彼らの表現の仕方で、12月10日に何か起こるらしい。

ここ2カ月ぐらい、日曜日にN堂へ行くと、飛行機に乗って自分の声がボワーンと反響するような耳詰まりみたいなことが続いている。4、5年前も、mister donutsみたいに、”禁止”されているところへ入ると、そんな現象が続いて、その後収まったけれど、聴力が落ちた。ボワーンとなるのは午後だけなので、祈りだけならば良いと言うことなのだろうか。午後やっているボランティアが問題か。N堂だけが唯一の社会との接点なのだけど。

早朝、うとうとしている時に、「あと2年で死ぬ」という声が聞こえた。それに続くように、「目が見えなくなる」という声が。恐ろしかった。こういった奇怪な現象が始まるずっと前から、「失明」と言う文字が急に浮かんだり、目に関する予言は振り返ってみると、いろいろあった。

最近はあまり読書をしなくなったが、ふと思いついて、若きウェルテルを手に取った。初めてOに行った時に、書棚から借り出してそのままになっている4冊ぐらいの本の一つだ。

ケースに入っているのだが、実際に手に取ったのは初めて。扉のページに蔵書印が押してあるのに気がついた。また、最初の方だけだけど、付箋が4、5本立ててある。私が読んだのだろうか。でも、記憶がない。

私はウェルテルをちゃんと読んだことはなかったから、今回読み始めてみて、改めて、優れた作品なのだなと思った。パラパラ読みをしてみると、啓蒙主義時代の作品らしく、ウェルテルの墓には牧師は誰も来なかったとか、ウェルテル自身が遺書にサマリヤ人だけが、墓のそばを通るだろう、と書いている。