今年の陽気は何だかイレギュラーで、3月になれば三寒四温という表現も当てはまるけれど、

1月のうちから春のように20度を超える日もあれば、雪が降ってたいそう寒い日があるというふうに普通ではない。

 

そんな変化の激しい日々、私の暮らしも「彼ら」の襲来(といっても、もう6〜8年ぐらい居るわけだけど)が激しくなって、1月の半ばから、1週間ぐらい、外界の時間とは切り離された時間を文字通り生きさせられて、気がついたら医者のアポイントの時間を過ぎていたとか、昼だか夜だか分からない時間を生きていた。

 

そんな夢うつつの中で、1月半ばに家の中で転倒し、今は少しよくなったけれど、そろそろとしか歩けなくなってしまった。

 

「彼ら」は寝ている間に、いろんなものを、つまり将来の可能性といったものを私から取り上げていくので(それは彼らの歌で昼間も行われるが)、24時間緊張を強いられる。

 

例えば、私が誰か友達とか知り合いのことを、あまり深い意味もなく、ふと思い出したとしよう。すると、私が発話していないにもかかわらず、また、そんなに深く考えてもいないのに、

彼らは電光石火、すぐその名前を歌で歌って、「取られる」「取られる」といって、挙句の果てには、そういうことが続いて、私には何にも、友達も、知り合いも、将来の可能性も、全てなくなって、それが他の人たちに持っていかれるのだという。

 

そういえば、もう2、3年前から、私がくつろいでいると、夢人格が「ここを誰の家だと思っているのか、すぐに出て行け」みたいなことを言って、「いつまでもここにいると大変なことになる」と恫喝のようなことを言うのが、もう習慣みたいになっていた。

 

この家には、たくさんの人が来ていて、私の一挙手一投足を見ているのだという。それはおそらく、アストラルレベルでのことだと思う。

 

だけれど、理性的に考えれば、彼らにも住む家はあるだろうし、ここを乗っ取ることに何のメリットがあるのかわからないし、実際に、私がレントの支払いをしなければ、ここは維持されないだろう。

 

最初、脅かされた時は、本当に驚いて、恐ろしくもあり、慌てたが、実際は、何にも起こらない。

 

せいぜいで、何もしていないのに、祈祷書がバタンと音をたてて、載せてあった台から落ちたぐらいか。

 

けれど、彼らの歌は、外出中でも鳴り響いているし、いろんな夢の中で、いろんな示唆があって、それは微妙に私のなかに残り、意識を浸食しているのだと思う。

 

実際に、ここに誰かが押しかけてくるということもないし、何かが起きるということもない。

こういうことを考えていると、イングリッド・バーグマン主演の「ガス燈」という映画を思い出す。恐怖の情報を日常の出来事の中で少しずつ与えていって、女主人公が自分の精神の正常さを疑うようになってしまうという物語。英語では、これはガスライティングという表現として、定着しているのだという。

 

彼らの与える恐怖に突き動かされて私が行動すれば、現実はそうではないのに、私は彼らの意のままに操られるということになるだろう。まだ残っている理性が私を支えている。人間界で生きていくために。