新緑の美しい季節になった。でも、私の毎日は、日用品や食品の買い物ひとつ、言葉のひとつ

ひとつで、「尋常ならざること」が起こるので、緊張の連続。とくに就寝中は、いろいろな

ことを文字どおり吹き込まれるというか、囁かれる(主体はよくわからない、私が受け手というだけで)ことで、動揺したり、反論したりで、朝になるとグッタリしている。

 

不思議なことは、ずっと昔、いろいろな昔の時代だが、私が言ったり、書いたりしたこと、そんなフレーズをワームが突然、通常の歌のあいだに挟むことだ。本人も忘れていることである。

 

以前にも書いたことだが、私の周囲の人々が、まるで私の欲求や行動(過去も未来も含めて)をそっくりそのままといっていいほど、再現する不気味さである。

 

ある意味、鏡像なんだろうけれど、これに関しては猛省している。ある時期、鏡をツールとしてたわいないことなのだけど、今から考えると、魔術的行為をしたことだ。

 

それが今、何かがトリガーになって、戻ってきたということだろうか。

 

キリスト教が厳しく魔術をとりしまっていることはよくわかる。こういった境界領域にあるものは、ひとつの「文化」として寛容であるのが世情だが、実は、その世界に不案内なものは、

うかつに手を出してはいけないのかもしれない。

 

夜は夜で、もう地響きがするほど、彼らの伴奏音楽が大きいので、なかなか眠れない。

 

彼らはブログを書くことを非常に嫌っている。今も「自殺行為、自殺行為」とわんわん

言っている。そういう面もあるのだろうが、もうどうしようもなく、昨晩などは、近々、

環境激変みたいなことを言って、日にちを切って言っているので、苦しい思いをしているが、

こういったことを書くこと自体、そういう将来を招来する確率が高くなるのではと思うので、

書くことは控えているが、ただ、私の身に何かあったとき、最後に証拠になるのがこれしかないと思うので、綴っているのである。