祈り

今日は本当に3週間ぶりぐらいに、本格的な外出をして、デパートで買い物などをした。ずっと引きこもっていて、なんだかおかしな精神状態だったのだ。

 

奇妙で不安な夢を見たり、玄関ドアを叩く音や口笛、といっても夢のなかのもので本当のものではないけれど、すごくリアルな音なのだ。

 

まるでスキゾフレニアみたいだが、起きているときの人格はちゃんと「統合」されているので、病気ではないだろう。が、不安が「できごと」を呼ぶのか、それともそれはある予見なのか、判然としないところが難しい。

 

311の事故をその4年前に幻視したこともあり、まったく当たらないわけでもないことが困ったことで、過剰にsensitiveになったりもする。現在と未来と二重の時間を生きているようなもので、不便なこともある。

 

が、どういう神様なのかはわからないが、贅沢をいってはいけないようで、あるとき、こんな夢を見た。

 

私が左の顔の眉の上あたりを鏡で見て、「なんだかのっぺりしているなあ」と思うと、急にそこに直径2センチぐらいの噴火口のように輪状に陥没しつつ盛り上がってもいるイボが出現して、顔の他のところにも、小さなイボのようなものが散らばるというものである。

 

かなり不気味な夢だったが、これは教訓だったのだろうか。別に容貌について不満があったわけでもないので、何もしない今の生活に対する不満(自分では不安だと認識しているが)を戒められたということなのだろうか。よくわからないが。

 

C・S・ルイスが亡くなった妻とのコンタクトについて、死者との接触は電話をかけるようなもので、きわめてビジネスライクなもの、と言っていたことを思い出す。

 

これらの夢や警告のようなものは、人間世界で体験している、いわゆる親切であるとか、といった情感みたいなものがない、ファクトだけ示すという傾向があるが、その意味ではビジネスライクといえる。とすれば、宗教の世界で成立しているエモーションやチャリティみたいな感情や行為は、あくまでも人間のこしらえたもので、余分な夾雑物が入っているのかもしれない、と思ったりする。

 

だから、天使が出てきて、キラキラ輝いてみたいなことは一切ない、ある意味非情な世界だと感じる。いわゆる「善」や「悪」という要素があまり感じられない。現世的なそれがないというべきだろう。だから、徹底したリアリズムで仮面がかぶれない。

 

キリストも、聖書に書いてあるように、弟子たちには奥義をさずけたが、あなたがたは、見れども見えず、聞けども聞かずなので、たとえ話で語るのだ、と言っている。

 

そもそも、キリスト自身は祈るときは隠れて祈れと言っている。彼は癒しのわざや、

食べ物を増やす奇跡などはおこなっているが、弟子を率いて祈りの集まりをしていたわけではない。

 

日曜日のミサや聖体礼儀はあくまで最後の晩餐を記念しておこなうものだと考えるが、

それにしても、パリサイ人のように会堂で仰々しく祈るな、と戒めた師の言葉は、どう解釈すべきなのだろうか。