今日から3月。なにがなし月が改まると気持ちも改まる気がする。2月は初夏のような日もあったのだけど、ここ数日は風の強い日が続き、スーパーに行くにも、たった10分弱の距離なのだが難儀している。それはまだ打った腰のところが本調子ではないことも関係しているけれど。

家のヴェランダからは猫が原が眼下に広がっており、その先は車も通る道路になっているのだが、ヴェランダのちょうど向かいにあった、隣の公務員住宅の古い給水施設が最近取り壊されて更地になった。おそらく長く使われていなかった給水施設で、フェンスのまわりにはペンペン草が生えていたりするのだったが、そのちょっと荒れた雰囲気が嫌いではなかった(何となく昭和の匂いがする)。

 

その給水施設は三つの建物からなり、一番手前はヴェランダから壁面が見えて、その壁にある

帯状のシミまで、毎日目に入るものだから親しみを感じていたので、ここに越してきてちょうど4月で10年、その年月を失ってしまったような言いようのない寂しさを感じる。

 

そういえば、越してきた当初は、駅からの10分の道が、まるで公園の中を抜けるような、樹々のトンネルの感があったのに、ここ数年の間に、やたらにそれらの樹々が枝打ちをされて、樹幹とほんのわずかの枝の残りという無残な姿を晒すことになってしまった。

 

私の家の窓から見える立派な欅の大木も、短くなった腕を痛々しく伸ばしているのが現状だ。敷地内の桜の樹々も大々的に切られており、残念なことである。

 

先週は、玄関を出たところに植わっている10本ほどの山茶花のうち一本が倒れているのを見つけて、管理事務所に知らせに行った。その後、植え直すとかフォローもなかったので残念に思っていたところ、今日、その倒れた山茶花ともう一本の大きめの山茶花を細かく切っている植栽業者がいたので、尋ねてみたら、どちらも風のためか、あるいは古くなって傷んだためか、倒木扱いということであった。

 

家の窓から見えるところに八重桜の大きな木があったのだが、18年の9月、台風で倒れてしまった。ただし、根っこのところは大丈夫だったので、業者が入ったのを見て、直してくれるのかな、添木でもつけてくれるのかなと思っていたら、あっという間に切り倒してしまったので、私は駆けつけてトラックに積んである葉っぱを取り上げて、それは今でも押葉になって家にある。その桜はもう私のPCのクラウドの中にしか存在しないのである。

 

こんなにやたらに木や枝が切られるのは、「彼ら」と関係があるようだ。彼らの意に添わないことをすると、そんなことが起こる。普通には思い過ごしだと思われるであろうが、どうも相関関係があるようだ。こんな環境で生きるのはなかなか大変である。先日も、エアコンを暖房設定にしてあるのに突然冷風になってしまい、寒いのにヒーターだけで我慢しなければならなくなった。