癒し

暖かい日だというのに、相変わらず息があがっているような苦しさがあるので、来週の月曜日に予約をとってある一駅先の病院があるのだが、週末もはさむし、不安なので、すぐ近所に循環器が一応専門の医院をネットで見つけたので、午後診療の時間に出かけた。

 

普通の心電図では異常はなく、血中の酸素濃度も問題なしということで、結構理詰めの医者は延髄から心筋に送られるパルスのシステムを図解し、パルスを二倍、あるいは二分の一にして、巧く均衡を保っていることなどを、あれこれ説明した。

 

呼吸困難の場合は、酸素濃度はこんなものではないのだという。要するに、心臓の病気ではないということを言いたいらしいが、それでも、本人が自覚しない時に起こっている不整脈がある場合を考えて、24時間心電図のテストをすることにして、今、首から下げているところである。

 

医者からの帰り、本屋に立ち寄って、「ナショナル・ジェオグラフィク」日本版が、

プーチンのロシアの若者たち」とかいうカヴァーストーリーだったので、パラパラめくってみた。

 

しかし目についたのは、医学と「癒し」現象の関係の特集で、巡礼地やシャーマン、プラシーボとその反対のもの、などについてのケースがいろいろ書かれていて、興味をひかれた。プラシーボについてはよく知られているが、その反対現象もあって、不安などがあると分泌される脳内物質(名前は失念)が、病気ではないのに疾患状態をつくりだす、という部分を読んで、「自分のはこれじゃないか」という風に思った。

 

その意味では、脳がすべてをつかさどっているといっても過言ではなく、実際に、

過去のトラウマ的な記憶であっても、それを想起しているあいだ、記憶の実体はそのあいだある種の可塑性を帯びているので、「書き換え」も可能なのだということを、ポピュラーサイエンス的な、オクスフォードの女性科学者の脳科学の本で読んだことがあった。あれは古本屋に出してしまったかしら。

 

心電図に異常がないと聞くと、結構気分がよくなったが、では、その苦しいときに、

「救心」を飲むとどうして楽になるのか、病気がないのなら、それはそれでおかしなことではある。

 

心臓は単なる心臓には非ず。魂の象徴みたいなものでもあり、移植された心臓にはドナーの記憶が宿っているという話もあるぐらいだから、私の魂が苦しい、と言っているのか…。運動不足なので、久方ぶりにスローなジョギングを始めたせいかもしれないが。

 

日が暮れるのが本当に早くなった。秋の陽ではなく、冬の陽もつるべ落としである。