運命的なとかいった、言い方は好きではなのだけど、そういったものに追い詰められている感じがひどくて、超自然的なものをできるだけ頭の中から捨象して行動していかないと、身動きがとれなくなってしまう。

 

数年前、これが始まったころは、「危険」を避けるために、食料品の日々の買い出しさえも、

控えたりしたのだが、さすがに今はそういうことはないけれど、だからといって、宅配も「禁止」(好ましくない)状態なので、最低限しか使わない。

 

ふと、昨日、「やはりこれは病気ではないか」と思い、ネットでいろいろ検索していたのだが、いわゆる幻聴があっても、それが生活に差し支えていなければ病気とは診断されないようだし、また、そういった「声」に反応することがよけいよくない、とあった。

 

そういえば、夢はビジュアルな印象として残ったりするのだけど、睡眠中に半睡状態で「言われる」ことに対して、反論したり、弁明していることがよくある。そうして「言われること」自身も、よくよく考えると自分の中から出てきたものであるような感じもあったりする。

 

幻聴というのは、だいたいが「悪口」なのだそうだ。だからこそ、生活に支障が出るわけだろうが。褒めてくれる幻聴などというものは聞いたことがないから、それは結局、自分の中から出てくる、罪意識とか、「気にしていること」なのだろう。

 

とはいえ、私の場合は、以前書いたように、行ったことがないところのレシートが落ちていたり、ピアノみたいな木のかけら(綺麗にニスを塗ったローズウッドみたいな)ものが落ちていたり、といったことがあるから、私を取り巻く一連の「困った環境」は自分の意識が作り出したものと、超常現象のあわさったものではないかというのが結論である。

 

奇妙なことはたくさんある。足を見せてはいけないので、スカートをはくことはまずない。足を組んでもいけない。足を組むと、ぱっと車椅子のイメージをフラッシュカードのように見せられてすっかり怖くなったことが当初あった。

 

何か「違反」をすると、必ずといっていいほど、車椅子の人が向こうからやってきたり、電車に乗り込んできたりする。もう当初はノイローゼ状態だったが、今は生きていくのにせいいっぱいで、やり過ごすしかない。ちなみに、家の近所にはそういったdisabledの人たちのセンターがあるので、常識的に考えれば遭遇することだってある、と、当初は遭遇するたびに、考えようとした。盲人しかり。これもセンターと関係するかもしれないが、遠隔地でも、何かあったりすると、白杖の人が出てくる。

 

まあでも、このあいだは、初めてだったのだが、確かに同じ車両に乗り込んだはずの、車椅子の人が、私の降りる、次の駅で姿が見えなくなったので、これは「幻視」だったのかな…とか。

 

本当にこの生活は大変で、恐怖映画の主人公になったようなものである。そうして、カタストロフというか、「彼ら」が「不幸な人生、不幸な人生」と私のことを歌うわけだけど、そうならないように、親族やら何やらを避ける行動を取ろうと日々、忌避に忌避を重ね、別に逃げ回っているわけではないのだが、「運命」の網の目を潜り抜けようと膨大な努力を払っている。

 

そうそう、そういえば、幻聴は社会的に孤立した人に起こりやすいのだそうだ。病気でなくても、睡眠不足とか極端な疲労とかも原因になりうる。また、それと関係するのだろうが、孤独なひとが補償的にそういう人格を作り出して話をする、そんな場合もあるらしい。私も、いわゆるフルタイムの仕事をしなくなって、さらに孤立を深めるようないろいろな条件が重なって、これがあらわれたのかもしれない。

 

こういった科学的な説明を知る前は、前世の罪障記憶のかけらとか、もっとスイパーナチュラルなことを考えていたのだけど。