ヴィレット

最近の小説は、読書の喜びをあまり感じさせてくれない。そこで、シャーロット・ブロンテの作品で、「ジェイン・エア」より数段面白いと言われている「ヴィレット」を今読んでいる。

 

普通のヴィクトリアン・ノヴェルのように見えるが、いわゆる「意識の流れ」の先鞭をつけていたり、と、言葉の使い方が独特で、舞台がブリュッセル(これがヴィレットという架空の名前になっている)なので、仏語がかなり混じるため、英語では「ジェイン・エア」よりずっと読みにくいらしく、邦訳で読んでいる。

 

ブロンテ姉妹はベルギーに留学(というのだろうか、そんなに華々しいものではないが)して、将来は学校を開きたいと思っていたようだが、エミリーはホームシックになり、先に帰国してしまった。「ヴィレット」はシャーロットの自伝的要素が非常に濃いようで、さまざまな家庭の事情から困窮している若い女性、ルーシー・スノウが活路をもとめて、ヴィレットへ渡る物語である。

 

一見古くさそうな筋書きなのだが、「ジエイン・エア」以上に、いくぶん引っ込み思案だが、独立独歩の、思慮深い、けれど、内にさまざまな葛藤を抱えた、身寄りのない女性の心性が手に取るように(もちろん自分のことだから)描かれていて、面白い。

 

それに、「ジェイン・エア」以上に、作者が自分の感情をストレートに出しているのが、周囲の束縛的な環境とのコントラスト(貧しいことで偏見をもって見られたり)の中で描かれていて秀逸。ゴシックホラー的な要素もあるようだ。(これは楽しみ)。

 

「こんなことをするのはイギリス女だけね」「イギリス女って、なんて大胆不敵なんだろう」と、ヴィレットのあるマダムが言うように、文化摩擦も会話のなかにほの見える。

 

これに比べると現代の小説は(というと老人のようだけれど)なんともつまらない。カツオブシのダシのような、「旨味」というものがない。その「旨味」の多くは、「ヴィレット」に見るように、人物観察の妙が大部分を占めている。その造形が巧く、人間の喜びや悲しみ、失望が生きているのだ。ムラカミハルキの小説の「書き割り」みたいな平板さとはたいへんな違いである。

 

シャーロットはエミリーと違って結婚したが、夫が執筆をよく思わなかったので、結局筆を折った。

 

そういえば、二年前の夏訪ねた老ロシア女性の伝記を小説スタイルで書いたひとがおり、書店でぱらぱら見てみた。名前は変えてあるが、表紙にはそのひとの白衣姿の写真があるので(彼女は医者である)、なんだか、ちぐはぐな感じであった。私が知りたかった、彼女が子供時代に預けられてたいた修道院の名前もどうも仮名のようであった。修道女になるのに「得度」という言葉を使っているのも、ちょっと抵抗があった。

 

小説にしたのは、家族関係などをある程度ぼかして書く必要もあったのだろうけれど、では事実を超えた「真実」をその手法で描けているかというと、かなり不足の印象であった。この美貌の女医のあれこれを知りたいひとには、どこまでが本当の話か分からず、中途半端な結果に終わっているのではないだろうか。

 

本当にそういう出来事があったかどうかわからないが(年代的には可能だろうけど)、この女医の若き日、駿河台の教会でイコン画家の山下りんと出会い、いろいろな話をし、さらに、教会の鐘楼付近に山下が昔隠したウィスキーを取りに行って、二人で飲む、といったエピソードがあったが、この会話も、踏み込みやニュアンスがなく、フィクションならもうちょっと深い話にしてくれたらなあ…と、ないものねだりだが、考えた。

 

私が結構好きな皆川博子女史も、山下りんらしいひとをモデルにして「冬の旅人」というのを書いていて以前読んだが、これはもう奔放すぎて、ラスプーチンの青年時代みたいな若いひとが絡んできたり、だんだんついていけなくなる内容であった。西洋画に魅入られた女子学生が帝政ロシアに留学して、というと、誰でも山下を思うだろうけれど、最後はシベリアを彷徨ったりするので、これは山下りんにインスパイアされた、と見るのが妥当だろう。

 

やっぱり、小説は19世紀にもう完成をみてしまったのかもしれない。