青春の街

3月11日には、東日本大震災から三年目を迎えるので、テレビも関連した話題が何かと多い。

 

昨日の夕方、歌手の南こうせつが、石巻市被災津波で妻を亡くした商店主を訪ねて話をする映像が流れていた。二度目の訪問ということで、被災者の初老の男性が妻の遺影に花を飾り、祈る、その背中を、南が感極まったのだろう、「よしよし」というように撫でていた。

 

「僕より年上のひとなんですけどね…」と南はスタジオで語っていた。被災地ではコンサートもたびたび開いているようで、「神田川」とか、昔の彼のヒット曲をいろいろ歌っていたが、ここでも、肉親などを亡くした多くのひとを眼の前にして、歌も涙でときどきは途絶えがちだった。

 

南はそうした映像を見ながらスタジオで語っていた。「歌がどれほどのことができるかわからないのだけれど、皆、昔のこうした歌を歌うと、青春時代がそのまま戻ってくるのだと思う。生活の重荷も、ましてや震災の悲惨もない、ずっと前の自分が自由で幸福な時代に一瞬にして戻り、それでまた、「よっしゃ」という気持ちになって、頑張れるのかもしれない」と言っていた。

 

私は、震災関連のこうした番組はこれまで情緒的過ぎてついていけないところがあったのだが、南はやはり本当のミュージシャン、「こころ」があるので、こうした言葉がそらぞらしく響かないのだと思う。

 

商店主(移動バスで焼きそば屋をやっている)の背中を撫でているのも、本当に、思わず手が出てさすっていた、そういう感じであった。かなたには、青い美しい海が静かにひろがっていた。商店主は妻と妹を津波で亡くし、自身も津波に呑まれて、流され、大けがをしたが、からくも生き残った。

 

商店主は、店であるバスがとまっている広い通りというか野原の傍に、たくさんの花を植えており、花いっぱいにして皆を元気づけたいのだと、笑顔で語っていた。

 

震災後もこうしてなんとか元の生活を復活させよう、さらに周りのひとも元気にしようとしているひとびとの営みのようなものを見て、自分のなかで何かが少し変わった。実は少し前からそうだったのだが。

 

私は震災後、自分が見聞きしたことも多々あり、一生懸命情報を集めたり、自分で考えたりして、主に放射能の被害等を考えて住居を移したのだった。食べるものや水などにも、命には代えられないということで極力気を使い、できるだけ被曝を避けることに努めていた。

 

それは、健康や衛生面ではなるほど妥当なのではあるが、ある意味、逃げよう、避けようとすればするほど、反対に自縄自縛になっていくジレンマがある。また、福島などには避難することも難しかったり、あるいは、ふるさとを復興させるために、その地で頑張るひとたちも多くおり、その生活ぶりなどを見るにつけても、なにか自分のなかに「しらじらしい」ものがあるのを感ぜざるをえない。

 

「花を咲かせよう」と一生懸命な焼きそば屋のおじさんに対して、恥ずかしいことではあるが、もしそのお店に行ったら、「この焼きそばははたして大丈夫か」と内心考えてしまうだろう。ある意味、どこか病んでしまっている気もする。

 

実際、あの事故は、正常な判断を狂わせるものだった。リスクは減らそうとすると、どんどんそれがエスカレートする性質も持っている。3年の月日が経ったから安全ということでは決してないのだが、当時のリスク過大評価が自分のなかにあったという気持ちに、最近はなっている。

 

こちらでも、いろいろな経験をしたことも決して無駄ではなかったと思う。何よりも、多くの葛藤を抱えながら長い二冬を過ごしたことも、過酷ではあったが、いずれよい思い出になるだろう。

 

私にとってやはり東京は青春を過ごした町である。南こうせつの言うように、ひとは「青春」に思いを致す時、やはり原点回帰して、また、新たなエネルギーをもらえるのではないだろうか。

 

そんなわけで、また、首都近郊に戻ることにした春四月。おそらくは、私のふるさとは、そこなのであろう。帝都東京は桜吹雪の頃だろうか。