怪しい正教文学

昨日はひどく冷え込んだが、今日は一転して暖かな春のような日だった。それでも午後からは雨模様になったが。

 

午前中は日よけに使っていたスダレが窓の手すりから抜け落ちそうになっていたので、

紐で固定するのに時間を費やしてしまった。窓際には机があって、最初はその上に乗って作業していたのだけれど、うっかりして窓から落ちる危険性もあるので、机をずらして、腰掛けるようにした。

 

一人暮らしでは、思わぬ事故や怪我に合わぬよう、常々細心の注意を払っている。助けを呼ぶ電話のところまで行けない、なんてこともあるからだ。先日来の風邪も、食料を買い込んで篭城して、暖かく過ごし、なんとかやりすごした。

 

正教会はもう大斎の季節に入ったのだが、忍耐心を試すようなニュースがあった。鹿島田真希の新刊の書評が朝日新聞に載っていて、ずいぶんと褒めてあったが、今度の新刊は、

旧約聖書の直接引用と、物語が交互に織り込まれて進行していくのだそうだが、その物語というのも、義父に性的ハラスメントを受ける少女が、近所の下着泥棒と噂されている「お兄さん」から、旧約聖書の物語を語ってもらう、というようなストーリーなのだそうだ。

 

引用されている旧約が正教会訳なのかどうかは知らないが、汚辱のなかの聖性みたいなことがテーマなんだろうと思うが、それ自体はカトリック文学などによくあるものだったりするし、それはそれとして分かるが、彼女の小説が「正教」と結びつけられて論じられるのには、本当に嫌な気分がする。彼女の小説の「正教」とは、聖人の名前を散りばめたり、不倫の相手が輔祭だったり、というツールでしかないからだ。

 

聖書、とくに旧約聖書近親姦、男色、殺人、なんでもありの世界なんですよ、本当は、ということを出版社も押し出したいらしいのだが、読んでいないから何とも言いようがないが、こうしたテーマを聖書の引用と結びつけて読ませて、きっと目新しい「力わざ」みたいなものかもしれないが、そうした、分けの分からなさを純文学といってあがめ、そして、聖書まで援用するのは、暴挙と言ってよい。

 

そうした鹿島田のおかしな文学を、正教会のひとがもてはやしているのも、おかしなことである。芥川賞作家と言っても、芥川賞なんて、所詮、出版社が話題づくりのために、

アピールしそうなものを選んでいるわけだし、本屋の宣伝戦略に過ぎない面もある。

 

私はいわゆる「道にはずれたこと」を指弾しているわけではなく、それを描くための必然性があまりにない、鹿島田のやりかたを嫌っているのであるが、そうでなくとも、普通の正教会の信徒だったら、当然抵抗を感じる作品だと思うのだが。

 

芸術における表現は自由であるべきだと思うが、信徒であることをあちらこちらで強調している作家の作品がこれだったら、「こういうのは私には受け付けられない」と言えないとしたら、それは文学が分からないと思われたくないスノビズムに堕しているのではないか。

 

正教会の素朴さを愛してきた自分にとっては、異能であるかもしれないが、彼女の作品が「正教的」ともてはやされ、且つ、教会でも大いに人気であるとしたら、とても残念だし、悲しいことである。

 

おそらく、彼女が「6000度の愛」という、原爆と皮膚病の輔祭を絡めた小説で、早くに賞をとったから、教会でも”公認”なのかもしれないが。芥川賞の受賞で、「お墨付き」が更に強力になったのだろう。まあ、教会も広告塔として利用したいのかもしれないが、こんな広告だったら、ないほうがましである。権威に弱いのだなあ…。

 

まあ、日本の国自体が政治も教育も最近ますますデタラメになってきているし、出版界はもともと異常なところと言えばそれまでだから、教会といっても「良識」を求めるほうがどうかしているのかもしれない。が、せめてひとりぐらい、頑固な昔気質の信徒がいて、「こんなものは最低だ。ゴミ箱行き!」ぐらいに気を吐いてくれればよいのだが。

 

紆余曲折の私の宗教遍歴の果てに、やはり私はキリスト教徒である、という土台は揺るがないものがあることを、このところ発見した。

 

私の人生のなかで唯一変わらなかったもの。最後に残ったもの。

 

それは小学生のときに、何かに呼ばれるように、一人で教会というものを探して、そこを訪れた日から変わらないものだ。私が行ったのではなく、それは「よばれた」のだったという思いを強くする。

 

私のこころのなかのイエスに対する「信仰」というのは、その時から変わらない。「正教」は、そう、放物線のように、その「信仰」と限りなく近いものなのだが、イコールではない。あくまでも外的なものだ。だから、それは切り離すことも可能なのだはと思う。

 

それを逡巡させているのは何だろう。ノスタルジーなのだろうか?