9月に入ってもいっこうに涼しくならないけれど、来週末ぐらいには少しは気温が下がりそうで、ほっとしている。もうセミはあまり鳴いていないし、かっと照りつける太陽もないのだけど、気温だけは下がらないのは、海水温の高止まりのせいだろうか。
サンマの獲れる冷水域が変化したとかで、今年はサンマが異常なほどの豊漁で、運搬の冷蔵コンテナや設備の方が追いつかないとか。
今年のはプリプリと太ったサンマで、この太ったのは9月までだという。イベントで皆が野外で焼いて頬張っているのをニュースで見て、私も食べたいなと思ったけれど、外で七輪でというわけにもいかず、残念。
このところやはりクマの害が多く、家の中まで進入してくるケースも結構あり、怖い。
福島では昨日、外にいた犬がクマにやられたとかで、本当に可哀想。
7月以来、あちらこちらで死者が出ており、さらに通学の学生や畑仕事の人、散歩途中に襲われるなど、市街地にも普通に出てくるようになっているのに、政治家たちは、あいも変わらず党利党略とか自分の選挙にしか関心がなく、対策が取られていないことに腹が立つ。
嫌なことばかりの世情なので、私はもっぱらクロノトポス、自分の時空間に避難している。3.11の頃もそうだった。そこだけが自分の生きる場所だった。そしてあの頃も4月になってもまだ余震の津波警報が日々叫ばれていた。「気をつけて、気をつけて!」
PALE HORSEは手放しですごい本だと思った。もともとこれは日本でも学生運動の盛んな時に人気のあったもので、私は中身を知らずに敬遠していたのだが、それが残念だ。
中学生の時に映画「ドクトル・ジバゴ」を熱心に勧めてくれた友達がいたのに見過ごして四十代になって、こんなに面白かったのかと悔やんだことと、似ていたりする。それからまた二十年ぐらい経って、ジバゴの原作を読んだら、これはさらに素晴らしかった。ジバゴの詩が最後に付録のように付いているが、「冬の夜」は私のお気に入りである。
PALE HORSEも全編、日記体で書かれている詩のようなもの。
そして私にとって大きな意味があるのは、これがニッキーの義姉であるEllaの夫、モスクワ総督セルゲイ大公暗殺の首謀者の回想録ということである。
首謀者はニヒリストで、チームのまとめ役であるが、実際に大公爆殺に携わったのはこの作品の中でワーニャと呼ばれている青年である。
ワーニャは虚無的な首謀者と異なり、深い信仰の持ち主で、全編、彼と首謀者の対話といっても過言ではないだろう。このワーニャの澄みきった信仰心ほど、キラキラした純粋なものを見たことも聞いたこともない。
昔、過激派や活動家青年が読んでいたこの本は実はキリスト教文脈の中でしか理解できないし、キリスト教信仰と「殺すなかれ」の葛藤を生きていった人たちの追悼録でもある。福音書や黙示録の言葉が宝石のように散りばめられていて、私はたびたび聖書を開いた。
そもそもこれを書いたロープシンはペンネームであって、本名のサヴィンコフは革命家として帝政と戦い、その後、ボルシェビキと戦うことになった異色の人である。最後はボルシェビキに捕らえられ、収監先で投身自殺したことになっているが、ソルジェニーツィンによると階段の踊り場から突き落とされたのだという。
ワーニャはアリョーシャ・カラマーゾフよりさらに一層記憶に残る永遠の青年の肖像である。