今日も「彼ら」の声がワンワン響いている。昼も夜も止むことはない。人と話をしていても、

あいだに彼らの発した声が入っていたりして、意味不明になることもある。注意深くソートしていないと、おかしなことになってしまう。

 

また、一月ほど前には、テレビを見ていて、画面に「ありえない」テロップ、たいがい警告だが、が入ったりする。それもかなりショッキングなものだ。

 

こういった視覚・聴覚の異常は、やっぱり何かが脳に働きかけているとしか、考えられない。

その意味では、精神科というより、ニューロサイエンスの分野でないとわからないのかもしれない。

 

それ以外に、夢でみたり、ヴィジョンであったりすることが、現実に起こったりすることもある。

 

振り返ると、18年の夏の終わり頃、「こういった厳しい、制約の多い生活は無理」といって

慟哭みたいに言ったことがある。

 

翌朝、ヴェランダが一部ガラス張りになっているところに、亀裂が入っていて、ショックを受けた。

 

そういう「実害」はひどく怖ろしく、他のヴィジョナリーなことだったら、「思い過ごしかもしれない」「考えすぎでは」と思うこともできるが、実際に、そのように間髪を入れず、現実界、物質界で何かが起こると、本当に怖ろしい。

 

あらゆることが、電車に乗っても、日常の買い出しに行っても、すべてにおいて、オーメン

取り囲んでいて、一端ではなくすべてであれば、私のアタマがおかしいということになるはずだが、よほどパニックになっている時でなければ、外見的には私は普通に見えるだろう。

 

脳神経の問題ではないかとはたと思い当たったのは、あるとき、電車のなかから見た山が

当然着雪の季節なのに、まったく別の装いを見せていて、驚いたことからだ。

 

今も「彼ら」はうたっている。これらのことを書くと、「人生つぶれる」「何とかつぶれる」

「運命つぶれる」と。

 

「彼ら」は「小さな神々」と最初やってきたときに、名乗ったのだった。古い土着のスピリットなのか、いずれにしても、書いていることで恨みをかっているのかもしれない。こういったものは「結社」のようなもので、決して外に向かって情報を漏らしてはいけないのだろうが、

私にだって耐えられないときはある。

 

このところ、眠れないことも多い。ある程度眠れはするのだが、夜はまったく「彼らの世界」になってしまって、こころの休まる睡眠とは程遠い。

 

自分でも、よく生きてこられた、と最近思う。誰にも理解してもらえないこと、これほどの絶対的孤独はない。