しるし

今年は桜が早かったので、八重桜も見頃を過ぎた感じで、少し散り始めている。

 

今日は自分が結構危うい心理状態にあるんだなと気づいた。

 

不要物というか障害となるモノを捨てているのだが、象徴的にか物理的にか、持ち去りを警戒して、ゴミのなかにそっと埋めてくることになっているのだが…。

 

何を出したか忘れるので一応メモというかリストにしておき、済みのチェックをするのが習慣になっているが、チェックしたときに、地域の防犯メールが届いて、ひったくりの被害があったので、気をつけてくださいとのこと。

 

こういう間髪を入れず来るものはだいたいオーメンと解釈して、今日はなんだかうろついている人を見かけたからそれかな、と考え、仕方がないので回収にいった。

 

ところが、今度回収しようとすると、救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎた。これも

荷物に手をかけた瞬間である。救急車も普段からオーメン化しているものだ。

 

これでは、持ち去りの危険がはたしてあるのかないのか、よくわからない。困ってしまった。

 

ゴミのひとつは、かつて腰痛のときについていた杖で、夢の告げるには、そうしたモノが状況を呼び寄せるみたいなことを言っている。今は必要ないので、惜しくはないのだが、「持ち去り」の意味もよくわからない。象徴的に、だったら、やっぱり持ち去られると困るのだろうか。ただ杖をもっていかれるだけであれば、構わないのだが。

 

それで、杖を梱包したものを取り出して、ケージのなかから出てきたら、今度はちょうど前を、そんなに年寄りでもない女性が、脳梗塞の麻痺のように片足を引きずりつつ、歩いていた。杖は持っていないが、かなり歩きにくそうである。

 

あまりのタイミングなので、気になって、戻そうか、と思ったが、そうしてもまた何かが現れるかもしれず、そんなことを繰り返していること自体、病理的な不決断だし、しかもその理由がオカルト的でよくないと判断し、とにかくもうひとつの包みのほうも持ち帰ることにした。

 

行ったり来たりを繰り返し、出したり入れたりをして、「ああ、自分は病んでるなあ」と感じた。捨てるなら捨てる、その気がないなら自分の「意志」でやめればよいのである。

 

迷った一連の行動にとても危険なものを感じて、家でつらつら考えた。

 

夢の言っていることには、たしかに納得できるものもある。でも、自分がゴミ捨てをやるのは、夢の見せる恐怖の未来からなんとか逃れようと、なかばパニックになってやっているところがある。理性的に考えれば、傷んでもいない、まともなものをどんどん捨てているのも贅沢な話ではあるが、そこは理由があるらしいからさておくとしても、恐怖からの行動というのはどうなんだろう…と。

 

それとも、自分のこころの迷いが、さまざまなオーメンを生んで、混乱させているのか。私にはわからない。

 

たしかに、何らかの支障があって、処分品を出してはいけない日もあるようである。

しかし、今日がそれに該当したのかも私にはわからないのであった。

 

帰宅して、テーブルの上を見ると、朝方出していたカトリック祈祷書が置いてあった。昨晩からイヤーワームのひどいのに悩まされていて、なにか適当な祈りがないかな、と探していたのである。

 

残念ながら、かつての文語体の祈祷書には、エクソシズムではないが、なにかそれに類した古めかしい祈りがあったような気もするが、現在の新しい口語体のものは地獄も悪魔もでてこないきわめてモダンなものなので、該当するようなものはなかったが、パラパラ見ているうちに、なんとなくこころが落ち着いてきた。

 

かつてC・Sルイスの子供向け伝記を読んだ時、ルイスの友人がオカルトにはまって、

非常に怖い精神状態になったのを一晩看病した話がのっていたことを思い出す。

 

夢のサジェスチョンは正しい面もあるが、受け取り方ひとつで危険な面もないではない。今日の「不決断」では自分自身で心理的「臨界点」を感じたので、何はともあれ、やらない「決断」をしたのだった。こころを病んでいるひとの行動で、かつてそんなものを見たことがあった。ハツカネズミのように、不安げにあちらとこちらを行き来し続けていた。

 

そうして、余分な情報をカットするために、携帯メールから防犯情報や列車情報を削除しておいた。