判断

今日は風が家のなかを吹き抜けて心地よい。どんなに暑くても、風が抜ければ、それなりに涼しく過ごせる。今朝はなんだか忙しくて、恒例の散歩に出かけられなかった。陽が高くなる前に散歩に出かけないと、暑いから。6時台はまだ空気もひんやりしている。

 

このあいだ、ヴァッスーラのことを思い出して書いたけれど、結論としては、私は彼女に否定的だ。ましてや、あのビデオは9.11の画像を使っているので、センセーショナリズムのそしりを免れないだろう。優秀な広告代理店製という感じだ。

 

ギリシャ人が彼女に説得されないというのも興味深いところで、カトリックには、ペンテコスタル派から、オプスデイ、フォコラーレ、なんとかかんとか、という風に、いろんな運動が雨後のタケノコのごとく常に発生しているが、正教会にはそういうものがないからだ。

 

ギリシャ人および、ギリシャ正教会はその意味で前近代的なのだが、だからこそ、規範的なものが生活と比較的きっちり結びついているので、「これはなんか違う」と感じるのではないかと推測する。

 

だいたい、ロシアの崩壊も、クーデターを起こしたのがロシア人なのだから、「変容」の日を選んで、象徴的にことを起こした可能性だってある。

 

ネットで調べていたら、12年の晩秋にエンデルレ書店は経営難で廃業したということで、驚いた。全然知らなかったからだ。(もっとも東京にいなかったわけだが)

エンデルレ氏は、ヴァッスーラに入れこんでいたらしく、トリニタス社版の手書きバージョンをずっと読み込んでいたらしく、何十回も読んだらしい。あの膨大なメッセージを。ひととおり全部読むには、平均9カ月かかるのだそうだ。

 

エンデルレはもと、四谷の雪印に近いあたりに堂々としたビルがあったが、いつごろだったか、赤坂寄りの小さなビルに引っ越した。四谷時代もそうだったのだけど、どことなく、埃っぽいお店で、沈鬱というか暗め(採光も雰囲気も)で、名付ければ、「胆汁質」なお店だった。三位一体のスールエリザベット(カルメル会)の洋書なども置いてあったが、このシスターの晩年は本当にスケルトンみたいに痩せているので、かなり不気味でもあった。

 

ただ、近代化された他のショップにはないもの、洋書が充実していたので、時々、のぞいていたが、ヴァッスーラを最初に買いに行ったときは、引越先が狭くて、また、陰気臭いのに驚いたものだ。

 

版元としては、東方教会(無名の巡礼者や、エフドキーモフとか)関係の書籍も結構出していたのでユニークな本屋さんなのだが、どうも、お店の雰囲気は、いつも沈鬱だった。

 

私もそうだし、誰しも、現行の教会にいろいろと批判や不満があるが、そうしたものが、この「お告げ」書き下ろしに、真面目な信徒の氏をのめりこませたという推測も成り立つ。そんなに多数回読むこと自体がまず、ちょっと普通ではないし、洗脳に近くなる。

 

最終的に、ヴァッスーラが偽物だとか、ホンモノだとかの判断は私にはできないが、もし、エンデルレ氏がこれに嵌るあまり、だんだん、現実界から足場を失い、健全な経営感覚を失っていったとしたら、経営者としては問題だし、また、良書を出していたゆえに、出版界にとっても損失だと思う(教文館が在庫を引き受けたようだが)

 

かなり高齢だと思うし、生活の問題も当然あると思う。出版は儲かる仕事ではないので、資産家とはあまり考えられないし…。

 

きっと以前は、日本でもドイツ語学習者の数が多かったので、おそらく、教科書販売などのコンスタントな利益がかなりあって、その分、ユニークな、あまり売れ筋ではない本を出せていたのかもしれない。ところが、第二外国語からドイツ語がはずされることも多くなり(履修者が少ないので)、手堅い商売のできる利益帯を失ったことも廃業の一因かもしれないが、ヴァッスーラの影響も実はあるのではないか。

 

ビジネスの左前が、彼にとってはあるいは、「時のしるし」と読めたのかもしれないし、普通だったら、立て直そうとする商売を、悪しき時代における「受難」として受け止めてしまったのかも、と思ったりもする。

 

すべて、私の想像だけれども。

 

放射能問題とちょっと似たところもあり、たくさんのひとが東北、関東を離れたが、

移住先ではそれなりに苦戦しているわけだ。生業がそうあるわけでもなく、文化も同じ国内とは言え、かなり違う土地で。本当のエクソダスならば仕方がないけれど、情報に過剰に反応してしまうところがネット時代の恐ろしさだ。

 

最後に。まったくくだらなくて、何の関係もないかもしれないが、ヴァッスーラの講演会からの帰途、電車の扇風機のなかにセミが飛び込み、それがそのまま私のワンピースを直撃した。潰れたセミはいかにも気味悪く、洗って着る気もしなくなって、そのワンピースはお払い箱になってしまったが、後味が悪く、迷信なのかもしれないが、なんらかのオーメンじゃないか、と思ったりした。

 

北国でも、鳩のフンが上から落ちて来て、あろうことか、毛皮の帽子とスヌードを直撃したのであった。まったくの偶然だろうけれど、そのとき、一緒にいた人たちと、ちょっと肌合いが自分は違うので、なんか警告かな、と思ったりした。三人いたのに、なぜ私が…である。

 

もっとも、ジョギング中に本当に鳩のフンを頭に被ったことがあるので、これらは何の意味もないかもしれない。が、それ以前に、ヴァッスーラや、その人々に違和感があったので、私はそう判断したのだった。

 

やっぱり、「この世的なもの」に軸足を置き、「あの世的なもの」とを上手にバランスして、意識していくことが重要なんだろうと思う。ヴァッスーラの言うように、たしかに、「地獄」はあるのかもしれないが、現在の時点でそれを言うことは、emotional blackmailという気がする。

 

まあ、一番の理由は、ヴァッスーラのメッセージが怖い、というより、読後、なんだかこころがざわざわする、落ち着かない、その感じが好きではないのだ。それは恐怖がもたらしたものとはちょっと違うと思う。