イコノクラスム

今日は昨日以上に暑い。朝9時ごろでさえも、まるで焦げるような太陽光線。ベランダで鉢植えに水やりをしていただけでも、皮膚がチリチリした。こんなことは今だかつてない。

 

昨日は、銀座のクリニックに主治医の女医さんに会いに行った。3ヶ月分貰っていた薬がそろそろなくなる頃だし、薬の量についてもいろいろ相談したかったからだ。

 

久々に会う先生は、優しく、丁寧に相談に乗ってくれて、クスリの適量というのは、感受性が個々人によって違うので、半量の錠剤を2つ処方して、適量を自分で定めるのがよいし、それも絶対的というわけでもないので、適宜様子をみましょう、ということになった。このように、柔軟な対応をしてくれるドクターは本当に有り難い。

 

午後3時のアポイントだったので、その頃は一番暑いだろうからと、午前中から出かけて、久々の銀座でウィンドウショッピング。震災前より、華やかさを増し、綺麗になり、欧米人の観光客が増えた、より美しい街になっている。とくに夕風が吹き始めた頃のそぞろ歩きが私は一番好きだ。

 

さて、けれども、ひどくショッキングなことがあった。プランタンのティールームへ行こうと教文館の横を抜けて外堀通りに出ようとしたとき、「イコン展」という、路上看板が目にとまった。こんなところにギャラリーがあったっけと思ったら、外堀通りに面した角に堂々立っている銀座教会の一角に、ギャラリーがあるのだった。

 

路上看板に、「朝日カルチャーセンターイコン教室」と書いてあったので、「朝日カルチャー」にそんなクラスがあるのかと驚いたが、中へ入ってみて、わが目を疑った。

カルチャーセンターのクラスの発表会的展覧会のようで、先生は女性が二人で、鞠安さんという、そのまた先生格の女性の特別出品もあったのだが、だいたいは、生徒の作品である(イコンをそもそも作品と呼んでいいのかという問題があるが、呼びようがない)。

 

発表会?だからかもしれないが、それぞれの「描画」の下に、かなり大きな「描いたひとの名前」が名札で置いてあり、本来アノニマスなはずのイコンにはひどく違和感のあるやりかたである。プロトタイプのイコンが何かという説明も一応はあるのだが、模写といってもあまりに似ておらず、ウラディーミルの聖母などは、まったく「別の顔」「別の表情」になっている。

 

また、技術的にかなり稚拙だからだろうと思うが、あるものは、キリストの顔の部分が、点描(というと言い過ぎだが)みたいにごちゃごちゃになっていて、だんだん胸が悪くなってきた。

 

いったい、教えているひとたちはどういう経歴なんだろうと、会場に置いてある、彼女らが訳した技法書(サンパウロが版元)の奥付を見てみると、だいたいが教育系大学で美術を学び(美大ではない)、そのあと、海外へ行ったりしているが、そこでも特定の誰かに師事したとか、学校へ行ったというのではなく、要するに、イコンをあちらこちらで見て来たということなのだろう。

 

しかし、いったい、こういったひとたちを、イコノグラファーと言えるのだろうか。

たしかに、wikiの解説を見ると、鞠安さん自身もイコン画家とは名乗っていないということだが、展覧会を多数しているようだ。また、さらにだが、「これがイコンです」と言って、教える資格があるのだろうか。これら規範意識を甚だしく欠いた、ある意味、不気味な展覧のありさまを見て、複雑な気持ちになった。

 

イコンの定義は簡単ではないが、私は単純に、「東方教会での礼拝用の聖画像」だと思っているので、カトリックのものはイコンではなく、イコン風宗教画だと思っているし(ヴァッスーラのインタビューの時に横にあったのも、絶えざる御助けの聖母だったかと思うが、一般にはイコン風に見えるが、アッシジのフランチェスコのあの磔刑像と同じく、イコンではないと思う。これをイコンと言い出すと、シモーネ・マルティーニの

「Annunciation」だって、金箔がはってあるイコンということになってしまう)

 

さりげなく、受付の年配の女性に、これらの生徒さんはカトリックのかたですか?と訊くと、そういうひともいますけど、「これなどは、正教会の神父さんの奥さんの作品ですよ」と言うので、もっと驚いてしまった。私が困惑していると、「ニコライ堂のN神父さんの…」と言う。

 

とにかく、斜視のようなキリスト像などは、「人の手によって描かれざる」型のものにはそういう目つきのものがたしかにあるとは思うが、そこまで達していないために、すが目のキリストは、神聖冒涜的な印象すら私は受けた。なぜ、嫌〜な感じがするのだろう。結局、レンタルスペースなどで、こういう展示をすること自体、ある種の自己顕示の匂いがするからだろうか。

 

神殿の商人の屋台をひっくり返したキリストではないけれど、これらをブチこわしたくなった私であった。イコノクラスムになってしまうが。

 

本来であれば、正教会が自前できちんと養成するのが一番なのではないだろうか。

また、イコン教室というのがもしあるとすればだが、ニコライ学院を廃校にした時に、

アタマを切り替えて、あそこを正教センターみたいにして、「朝カル」みたいなところで勝手に教えられてしまう前に、きちんとした場をつくればよかったのに、と思う。

 

正教会の文化について、関心はすごく高まっているし、あのロケーションと建物で教えれば、雰囲気もあるし、生徒も問題なく集まると思う。老いも若きも、皆、スクールに行きたがる時代なのだ。(美大の生き残り策というか、一番大きな利益帯は、実は通信講座で、中高年がたくさん通信生になっているが、結構ひどい内容のところもあるそうだ)

 

昔の女子神学校でやっていたような、聖歌や刺繍とか、そんなクラスをつくっても、生徒は十分集まると思うのだが。今は伝道会や事務所スペースになっていて、もったいない限りである。朝カルのような、新宿副都心の高層ビルよりよほど良いロケーションと建物なのに。経営感覚がないのだなあ…。

 

というより、趣味でイコンを描きましょう…みたいな風潮が広まっていったらどうなるのだろうか…。銀座の街角でたまたま、この「イコン」が初めてのそれとの出会いになる人とか。