週末は台風の襲来とかでかしましい。

 

夢とワームの打擲はこのところ激しさを増し、就寝してから、「えっ」というような、自分が深層で気になっているようなこと、あるいはすっかり忘れていたことなどを突然囁いて起こされ、「それは違う」などと言っているうちに、キーワードの羅列で、脈絡のない言葉が流れてくる。

 

とこかく、「責める」みたいなことで夜中に何度も起こされ、すっかり不眠になってしまった。

 

だから、最近は2時ぐらいに起きて、明かりをつけて、とにかく、現実的なこと、何か軽いものを食べるとか、そういう風に、現実に着地することをこころがけている。

 

一番嫌なのは、この家はお前の家ではない、出て行けみたいなことをたびたびいうことで、

さらに、この家にはお前が貧困(彼らの言葉で「愛着」)して連れてきたいろんな人間が入ると言うのである。

 

さらに、「貧困」の対象は人だけでなく、テレビのニュースに出てくる着ぐるみキャラクターみたいなものも、ここに連れてきているとか、たとえば特定の国とか都市とか、さらに、

芸術分野とか、最近は小説をちょっと読んだだけでも、「貧困した」と雷を落とされる。

 

しかし、こんなことを人に話しても、病気だと思われるだけだし…。もちろん言えるわけはない。

 

攻撃が激しくなったのは、Gの憤慨(同音異義語)がひどくなったので、収納場所を数箇所掃除したこと、禁止されている掃除の習慣を復活させていることである。

 

ここは「ゴミ」やら「Gたち」によって、汚いことで「守られている」というのが彼らの論理らしい。私が足掛け5年どれだけ、普通に言えばとんでもなく汚い、さらに彼ら、騒乱の霊みたいなものに囲まれて、忍従の生活をしてきたことか。

 

少しでも何かすると、「これこれを失う」と脅迫するので、食料品ひとつ買うだけでも、神経をすり減らす。

 

そんなわけで、昨晩は攻防が激しかったのだけど、そんなときに限って、夕方大きな地震が遠方であったり、これも遠方だけど、火山の噴火があって、防災メールで何度も起こされた。

 

「彼ら」はクリスマスを憎む。これからの季節がさらに攻防が激しくなるだろう。2年前には体重が半分ぐらいになったりした。

 

24時間ジュークボックスのなかに棲んでいるようなもので、さらに、それが行為に対する未来予言みたいな内容が鳴り響いているわけで、病院へ行っても治るわけでもないだろうし、

本当に手の打ちようがない。

 

考えすぎでなく、私の服装や態度を批判、戯画化したような通行人に毎度毎度会うわけで、

気にしないようにしているけれど、彼らが本当にそういうプラットフォームシューズを履いているのか(「上げ底人間」とからしい)、チュールのロングスカート(バレリーナがいつも批判されている、私は以前バレエを見るのが好きだったので。さらに、そういうものを自分も身につけたいと思っているのだろう、との批判)

 

こんなことは序の口で、電車で向かいに座った人がぬいぐるみマスコットをバッグにつけていたり、タオルハンカチでさかんに汗を拭いたり、もう千変万化のしぐさが展開されるが、

こういうことは連続して起こるとすれば、やっぱり普通は私の「アタマ」が疑われるだろう。

 

いったいどういうメカニズムなのだろうか。

大きなスポーツイヴェントが終わったのだけど、街にはまだ「TOKYO 2020」の文字が

残っていたりする。この年号はとても不思議で、大会中にもしょっちゅう見かけたわけだけど、延期したならどうして2021にしないのか、奇妙に感じた。

 

ここで時間が遡行したみたいな、時空旅行のような感覚がある。

 

そういえば、こういった生活が始まったころにも、時計をめぐる不思議はいろいろあったし、

2008年には本当に「ありえない世界」に迷い込んだのだった。二度目に訪れたときには影もかたちもない、未来世界みたいなところのお店に。

 

私は本当に自分が見舞われたこの異常な世界で生きていくのにせいいっぱいなのだけど、思いをいたすと、21世紀に入ってから、911、311、パンデミックとエ・ス・カ・・(希)

としかいいようのないことが起こり続けている。

 

こう書いているさなかにも、ワームたちが新規に獲得したこのエ・・・・という言葉を繰り返し歌っている。

 

私はとにかくこの「落とし穴」から出るのに日々苦闘しているのだけど、反省はある。おそらく、私が手を染めたいろいろな魔術というか、それほどのものでもないのだが、そうしたものの量的な積み重ね、いろんな種類のものたちの相互干渉みたいなものが、招いたことではないかと最近思う。

 

こういうことの危険性を宗教のなかでは厳しく言われていたこと、そうした禁止事項の意味が

齢?にしてようやくわかったということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このところ雨が続いて、鬱陶しい空模様だったが、今日は午後になって久しぶりに青空が見えた。白い雲も浮かんでいる。ミンミンゼミではない、夏の終わりによく聴こえるセミの声がした。

 

このところ、私をめぐる状況はかなり危険があるのか、Gがいろんなサイン(かもしれない)ものを残していくので、家じゅうで掃除に追われてたいへんである。そもそもGやその他のものたちが足掛け5年にわたって私に何かを教えようとしてきたのは、私がそう考えていただけなのかもしれない。

この奇妙な「プログラム」、過酷な「キャンプ生活」が始まる前から、そんなことはなんとなくあったけれど。

 

「彼ら」が私のことを「ガラスの存在」というように、私の中にあるもの、その行動とか思考とかアイディアとかが、外へ出て行って他のひとのものになっていくということ。

 

だいじなものを隠さない私が悪いと当初から彼らは言うが、極端な話、何もしてはいけない、考えてはいけないことになり、それは生きていることを否定してしまうことになる。

 

卑近な例で言えば、「オーメン」というのは、たとえば、スーパーに行けば、私が買おうかなとちょっとでも脳裏に浮かんだ品物が、気がつくと、あちらの人のレジカゴにも、また別の脳裏にあった品物が別のひとのカゴに、というふうなことは毎日のこと。

 

一番嫌なのは、私が書こうとしているレポートとか原稿が他人に流出してしまい(そんなことがどうして可能なのかと思うが)、私がコピーキャット呼ばわりされて、讒言されるということを、「夢」や「彼ら」がたびたびいうことだ。

 

こんなことは、人に言えば妄想か病気と思われるだろうし、実際にスキゾの人には、そういう「思考漏洩」みたいな妄想があったりする。

 

「失う人生」とか「さげすむ人生」とか彼らが毎日歌っているのは、そういう結果らしい。

「さげすむ」というのは、「さげすまれること」だと思うが、微妙に感じるのは、私が彼らをさげすんでいると、彼らが歪んで感じていることの、「仕返し」なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日から雨が降り出し、前線の停滞で1週間ぐらいこのお天気が続くらしい。

 

「夢」プラス「ワーム」勢力の夜襲はこのところ酷くなり、夜はしょっちゅう「お前はこうなる」「ああなる」「これを失う」「あれを失う」みたいなことを言って起こされて、熟睡できないので早朝覚醒して、ずっとそのままである。

 

昨日はその疲れが溜まったのか、一昨日もそうだったけれど、昼食を食べていると、ものすごい疲労感に襲われて、お箸を持つ手もとまってしまう。が、2年前にほとんど絶食状態みたいになったり、3年前には脱水状態になったことを思い出し、無理をしても食べている。

 

もう最近は「禁忌」は無視しているが、それでも、「リボンのついた服を着れば、人生失う」みたいなナンセンスを真夜中に突然言われて、そんな服はないと反論したら、どうもホームウェアについているほんの小さなリボンのことらしい。

 

昨晩は、ワームの「ミラクルランド」という大合唱で起きたこともあって、どうもこれはキリスト教をバカにした、他力本願教ということなのかもしれない。

 

もっと怖ろしいことをいろいろ言っているが、それを書くことは、拡散してしまうことで却って結果を招来してしまうという危険も考え、控えている。が、それもどんなものだろう。

 

「思考漏洩」みたいなことなのだけど、これは古代文明にはあったことで、今は存在しないことだと思うし、そういうことは、現世であればスキゾフレニー扱いなので、うっかり人に言うことも難しい。

 

私が一生懸命やろうとしているのは、このevilの極みみたいな彼らの世界、アクションがどこから来て、どのように働いて、あるいは他にサンプルがあるのか(私以外にも)、それを解明して、そこから抜け出す方途を探すことだ。

 

これを書き終えて、ページを閉じたら、「合唱団」が「ブログにこだわるせいしんびょういん」「せいしんびょういん」と歌い始めた。彼らはなぜこれほどまでにブログを嫌うのだろう。自分たちのことが書かれるから?

 

 

 

 

 

私が陥っているこの奇妙な世界に比べれば、ある意味、不遜だけど、コロナはたいしたことではない。

 

あらゆる食べ物が制限され、それも指定ははっきりせず、でも破れば譴責されたり、夕方から夜じゅう、譴責が続く。

 

「あれを食べたから…このようになる」「…あのようになる」というように。私の生殺与奪、社会的生命はすべて「彼ら」が握っているようであり、けれども、これを誰に話すとしても狂気、あるいは思い過ごし、神経衰弱としてしか相手にされないことだ。

 

昨晩の足裏のちょっとした切り傷の出血が今日になっても固まっておらず、こんなことは普通考えられないことで、病院へ行きたいけれどもそれも禁止されていて、行けばおかしなことが起こる。長い距離は歩けないのでタクシーでなくては行けないけれど、タクシーも禁止されている。

 

電話やメールといった通信の問題はもう数年来あって、届かないことも多い。

 

 

 

 

 

 

 

ここ1週間ぐらい、とくに2、3日は眠れず。医者へ行くことも禁じられていて、人と会うことも禁じられていて、食べ物の禁忌も激しいが、冷静になるといったいそんなことで人間が生きていけるはずがなく、これらが始まった17年の秋を考えると、あのころ、夢の提示する恐怖に駆られて、たくさんの持ち物を処分したこと自体、狂気としか思えない。

 

私が病的になるときには、だいたい、善悪の区別が激しくなり、敵味方みたいな思考に陥る傾向があった。これまでも…。

 

昨日は、睡眠不足の上に水分が足りないのか、熱っぽいのか、妙に喉が渇いてしかたなく、禁忌のジュースを買いに行って飲んだが、案の定、夜うとうとしていたときに、激しい叱責があった。これは禁忌を破った自分の無意識のギルティネスとも思えるけど、そうでもないようでもある。

 

最近一番良くないと思ったのは、夢にしてもワームにしても、「彼ら」が普通まだ知らないようなことをぽろっと言ったりすることで、驚いてしまって、「彼らの力」を怖れることだ。これが今陥っている身動きがとれない状況を生んでいるのだと思う。

 

こういうことを書き出すと、すぐ彼らは北国のあの街の名前を出して、そこへ行くことになるのだと、歌う。ここのところ、あちらでは獣害のニュースが激しくて、関係ないと思うのだけど、なぜ、私は19年にお土産に獣の缶詰をもらったのだろうとか、考えてしまった。

 

一人で住んでいることは本当によくない。こういう「思考」にはまってしまう。