年の瀬

いくらかは寒いが、冬にしてはしのぎやすい日が続く。朝からセーターを数枚手洗いして干したり、掃除をしたり。とっくにはずしたクリスマスリースの代わりに、今度は鶴のついた正月飾りを。

 

いつも買い物をするスーパーは、このあたりは家族が少ない家も多いからか、ごく簡単な二人用ぐらいのおせちのセットを売っていたりする。一方で、こだわりのある人向けなのか、添加物のない、産地を厳選した自然派の伊達巻やら錦糸卵を売っていたりする。この店は本当に小さいのだが、外に並べた野菜や果物はちょっと海外の野外市場的だし、買い物が楽しい。

 

さて、降って湧いたかは知らないが、外相の訪韓、バタバタと慰安婦問題に関する共同声明が出たりして、暮れもおしつまった休みモードの時を狙ったのか、何らかの前哨戦なのか。これだけ見ても、政治や外交は本当に力学でしかないのだなあ、とつくづく思う。

 

国家間の問題はともかくとして、日本軍は自国の兵士の多数を餓死させたり、捕虜を虐待したりと、自国、他国を問わず、非人道的な振る舞いをしてきたわけで、言い訳のしようもないと思う。

 

が、翻って、国民の側をみると、皆が国家に戦争に駆り出された被害者という意識だけで、慰安婦問題に関して言えば、仏文学者の生田耕作のように、慰安所には行く気になれなかった、として行かない選択をしたひとも、それなりにいた。

 

当時慰安所に行った元兵士(将校とかもいるだろうが)で存命のひとたちは、強制連行であれ、そうでなかったのであれ、(立場の弱い)植民地の女性に対してのそうした振る舞いを、少しのうしろめたさやこころの痛みを持って、今、おばあさんたちの映像を見ているのだろうか。聞いてみたい。

 

また、恥の意識から表に出ていない、日本人慰安婦の問題もある。

 

政治、外交の駆け引きの問題とはまた別に、日本人が自らの手で、戦争責任を追及していないことが一番問題なのではないかと考える。

 

慰安所に行くという「選択」をした元兵士が(行かない自由はあったわけだし)、自分たちは悪くないと思っているとしたら、それは、軍部に「担がれただけ」ということになっている天皇と同じではないだろうか。普通は、成人した人間がそんなことを言っていたら、恥ずかしいというものだ。処刑された大物戦犯には軍関係が少ないが(BC級は多い)、それは軍関係者の処罰をすれば、当然、大元帥にも類が及ぶからということのようだ。

 

そうして、天皇を無傷にするために利害関係者によるさまざまな工作がおこなわれ、日本の利権集団に護送されるように、彼らが生き延びてきたのが戦後だった。

 

あのような慰安婦の少女像をつくったりするのは悪趣味だし、大使館前やアメリカにまで設置しようとする行為は非常識ではあるが、日本人がそうした悪趣味なことをやってきたこともまた事実であると思う。戦争とはそういうものだ、とか、どこの国でもやっているという言い訳は無意味だ。

 

いかに今上天皇明仁が琉歌を詠んだりしてこころを尽くしても、沖縄では、天皇に対して複雑な感情を持っているひとまだまだ少なからずいると聞く。それだけ、天皇の名のもとに起こった惨禍が凄まじかったということだ。

 

つらつら見ると、あの少女像はなんともいえないものをもっている。いっそあれを千代田一丁目にもっていってはどうか。「もし、あなたが私の立場だったら」。慰安婦問題の原点はそこかもしれない。

 

本当はもっと違った話を書く予定だったのだけど。

Russian Orthodoxy and journalism: A maverick voice in Russia’s national church loses his job | The Economist

いろいろな考えのコメントが面白かったのだが、詩篇の146?  "put not your trust in princes and sons of men in whom there is no salvation. When his breath departs, he returns to his earth, on this very day his plans perish. The Lord will reign forever; Thy God, O Zion, to all generations.

について触れているコメントがあって、この詩句はこれまであまり記憶になかったが、美しくて感銘を受けた。

 

 

それと、本当は読んでもらっている感謝を書くのが一番の目的だった。

 

今年もこのブログにたくさん足を運んでくれてありがとう、ということを。

 

諸般を鑑み駿河台へはもう行くことはないと思うけれども、70年代のある意味、私が幸福だった時代に出会った”お友達”は、「兄弟姉妹」(けいていしまい)という呼び方があそこではされているからというだけでなく、文字どおり、「姉弟」として、かけがえのない大切な存在なのです。

 

旧年中はありがとう、そして、来年もまたよろしく。