事実の子

このところ一日おきぐらいに、暖かい陽射しのある日と雨や曇りの日が続く。ベランダの外の八重桜は濃いピンク色で桃の花のようだ。1年たってこちらの暮らしにも馴染んできた。メトロポリスに近いが半分田舎のような土地柄は、利便性があり、田舎ならではの味わいもまたある。

 

昨日、ふと、以前自分が受けたストレスとしての「告解」を考えた。道を歩いていて、ふと思ったのである。もし神の赦しがあるとするならば、仲介者なく、自分の直接の祈りで十分なのではないか、と。

 

それは、「改宗」のときと、元に戻した「再改宗」のときと二度あったのだけど、「他には…?」という神父の言葉に私は心理的圧迫感を感じた。ひょっとしたらあまり深い意味はなかったのかもしれない。でも、聖職者からの「促し」は父権的な強い立場から言われると、心理的脅迫にもなりうる。

 

誰も神以外に自分のこころを明け渡してはいけない、と思う。

 

いつごろかまでは知らないが、昔は、臨終総告解一回だけだったと聞く。それで十分なのだと思う。

 

正教会のように、告解と聖体拝領がセットになっている意味はどこにあるのだろうか?

時間がないので、ある教会では、話すことなしの一秒告解であった。形骸だけである。

伝統教会はカルトではないが、こうして人にこころを明け渡す危険は、どれだけ指摘しすぎてもしすぎることはない。いい加減なひとは良いが、若かったり、真面目だったりすればどうなんだろう…。

 

組織やシステムとしての教会には、このように常識から見て妥当でないことが沢山ある。そう考えている時に、以下の言葉にであった。

 

事実の子たれよ、理論の奴隷たるなかれ。事実はことごとくこれを信ぜよ。

その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、あえて心を痛ましむるなかれ。                                

                                 内村鑑三   

 

  

 

 

 

 

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