無名碑

駿河台のvigilの雰囲気が好きで、ふと行ってみたくなるときがある。あの顔の見分けがつきにくい、薄暮の空間がよい。初めて行ったのもvigilだった。

 

大勢のひとがいる空間は私の病気の発作がおきやすく、日曜日に出かけるには不安がある。

 

平日の一般参観のときのほうが静かで落ち着いた雰囲気が感じられる。

 

過日、ドリーン・バーチューのJesusのカードを買った。ネットで見ていて、絵柄が好きだったのだ。いくつかは、Jesusの話し相手が若い女性だったり、なんだか「ものみの塔」のパンフレットに似ていなくもないが、遠景にエルサレムが見える柱に寄りかかって瞑目している姿とか、ひとり湖で魚をつって焼いている絵とか、優しさが伝わって来る、すぐれた絵がいくつかある。こころの琴線にふれるものがある。

 

もちろん、正統派のキリスト教美術から見たら、信じられないぐらい大衆的なものだが、とてもこころが慰められるし、また、アマゾンでもそういうレビューが結構ある。

 

福音書の引用は、ドリーンがKing Jamesで育ったという背景から、馴染みのあるそれを使っている。

 

私が子供のときに日曜学校でもらったカードは、たまたまだが、ホルマン・ハントの「世の光」とかマドックス・ブラウンの「洗足」とか、ラファエル前派のものと、あと、ムリリヨ「無原罪の御宿り」などだった。

 

どれもとても大衆的なものだ。

 

ところで、大衆的とは果たして悪いことなのだろうか。

 

中学生のときに、「風とともに去りぬ」を読んでいたら、父が「大衆小説だな」と言ったことがあった。そのときは、別になんとも思わなかったけれど、大衆小説こそ、高踏派の文学にはできないこともなしうるのではないだろうか。「風…」がそうだ。人物が歴史のなかで立ち上がってくる。

 

ちなみに、このカードには、受難のイエスは一切ない。レビューに「痛いイエスさまはありません」とあったので、興味を持ったのだった。

 

ヒーラー、教師としてのイエス。イエスを人類の教師とする観点になるだろう。翻って考える。「受難」「復活」というのは、本当の物語だったのだろうか?

 

とはいえ、もしそれが本当の物語でなかったとしても、幾多の素晴らしいもの、美しいもの、すぐれた生き方を歴史のなかで生み出してきた事実はある。駿河台の教会もそのひとつ、後世に伝えていくべきものだろう。ニコライ師の事績のみならず、無名の善男善女の碑として。