お迎え

もうじきお盆がやってくる。昨晩、夜中に目が覚めてラジオをつけたら、あるプログラムが終わるときらしく、死について誰かが語っていた。

 

どうも「みとり」をたくさんしてきた女医さんらしく、体験したお迎え現象のケースについて話していたらしいが、それはもう終わっていて、しめくくりの話だった。

 

「死は皆さんが思っているような、恐ろしい、特別なものではなく…結局、臨終に際してだいじなのは、自分の人生を肯定できるかどうかということだと思います。その意味で、今という時間がとても大切になるのです」

 

というようなことを言っていた。

 

昨日のことだが、数年前にいわゆる「手のひらがえし」をした人のことを思い出して、怒りが再沸騰して、なにか「意趣返し」をしようかとか考えていたが、馬鹿らしいのでやめた。

 

最近ときどき思うのは、人生はいつ何があるかわからない。もし、今日が人生最後の日だったら、そんな馬鹿なことに時間を費やしたりしないだろう。

 

そして、腹立たしいひとたちはいっぱいいるけれど、最後の日には、そんなことはもうどうでもよくなっているだろう。「許す」というより、もはや「手放す」ということで、忘れ去ってしまうだろう。

 

正教会コンフェッションが聖体拝領と組みになっているのは残念な気がする。言うことがないことも結構あって、かたちだけになったり、地方教会では、神父が複数いないので、何も話さずに所作だけしていることがあって、「魔法」なのか、と思ってしまう。

 

かつては、臨終告解のみだった時代に戻せないものか。

 

そうして、毎日を「ご臨終」として生きれば、ずいぶん人生は違ってくるかもしれない。