パニヒダと本

春らしい陽気になった。風はまだ寒いものの。地面に蓄熱された暖かさを感じる今日このごろ。

 

昨日は、東日本大震災の犠牲者のためのパニヒダがあるので、駿河台へ行った。地震発生の14時46分きっかりに、鐘が鳴って、奉事がはじまった。

 

午後の時間は聖堂拝観者がロープを張られた啓蒙者スペースにいて、さらに土曜日ということもあって、鈴なり状態だった。

 

残念なことに、信徒参祷者は聖職者以外は数人で、聖歌隊もいない、後ろで参観者がギッシリという妙な状態だった。人数の多寡ではないというものの、会堂がギッシリみたいに予想していた私は驚いた。終了してから、隣の初老の女性に「いつもこれぐらいなのですか?」と尋ねると、「昨年から始まったんですよ。主教さんがやろうとしないから、私が文句を言いにいきました。東北では主教司式で参列者も多いというのに…」と。たしかにこちらは司式は主教ではなく、よくアトスに行っているというN師(自給司祭)だった。

 

むしろ、参観者のほうが、普段はイコンや歴史などの説明を聞くだけなので、興味深そうに奉事を見守っていた。

 

その後、ちょっとコーヒーを飲もうと、聖橋口近くにある喫茶店Hへ入った。ここは

昔は来たことがなかったのだが、最近コーヒーがたいそう美味しいことを発見してから、ごく稀にだが来ている。

 

ここは山岳と出版関係のひとのたまり場らしく、60年代の雰囲気があって、喫煙。何か読むものがないかな、と書棚を見たら、手前に「ニコライ」という本が置いてあった。とってみると、評伝シリーズの一冊で、このシリーズにニコライ主教のがあったのか、と驚いて、席に持って読み始めた。たいそう分厚い本である。

 

著者はニコライの日記を訳した一人でもあり、私もこれまでいくつか読んだことがある人だが、この評伝は目からウロコが何枚も落ちる面白さで、時間が経つのをすっかり忘れて読みふけってしまった。この本の存在を知らなかったなんて。

 

大変興味かったのは、私はニコライ・カサートキンはある種の宗教的逸材というか天才みたいなもので、それを個人の資質だと思っていたのだが、もちろんそれはあるとしても、時代背景が大いに関係していたということを知った。これまでの、聖職者などが書いた評伝では抜け落ちている視点である。時代のダイナミズム。

 

ニコライが日本にわたった1860年ごろは、クリミア戦争で敗退したロシアが、自らの後進性を克服すべく、アレクサンドル二世の農奴解放令にはじまって、さまざまな改革がすすめられた、いわゆる「大改革」の時代だったということだ。

 

ニコライはスモレンスクの中等神学校から、サンクトペテルブルクの神学大学へ進んだわけで、帝政ロシアの支柱ともいえるロシア正教会のいわば幹部候補生だったのだが、

驚いたことに、函館の領事館付き司祭というポストにつく卒業生を募ったところ、ニコライも含め12人ぐらいの応募があったという。従来なら国内で高位聖職者への階段をのぼっていくコースにいる者たちのなかにも、大改革時代の理想主義の風が吹いていたからではないかという。ポスト自体はたいしたものではないので、宣教ができることに魅力を感じた若者たちが多くいたことになる。

 

ニコライが即決になったのは、彼のみが修道司祭として赴任することを希望し、あとは皆妻帯司祭志望者だったためだそうである。

 

また、この司祭の派遣をもとめた函館領事のゴシケーヴィチだが、日本はまだ厳しい禁教下にあったが、宗務院に、「領事館付き司祭は、同時に日本でキリストの教えを宣べ伝えることができるだろう」と書いていることは、注目すべきことである。

 

そもそもゴシケーヴィチ自身が神学大学出身で、清国宣教団のメンバーとして10年近く北京に滞在、その後、外務省に転じたのであったが、そういった「転職」は当時のロシアではよくあったそうである。

 

この本で目からウロコだったのが、このゴシケーヴィチなどの例もそうだが、当時の時代背景として、いわゆる西欧の進歩派の影響を受けた「インテリゲンツィヤ」に対抗するものとしての、「教会知識人」という存在を、著者が再三再四強調していることである。

 

田舎の教区司祭と異なり、当時のロシア正教会の指導層は、ギリシャ語、ラテン語を学び、神学や教会史のみならず、貴族階級の知識人と同じ書物や雑誌、新聞を読み、流行思想にも通じている存在だったという。

 

当時のロシアは強固な身分制社会だったが、高位聖職者になれば、その出自に制限されることなく、上層階級に出入りすることもでき、社会的な活躍も可能で、身分の壁を超えることができた。

 

ニコライが、だから、東京で欧米の宣教師たちと交遊したり、議論することができ、さらに彼らの尊敬をさえ集めるようになったのは、彼がそうした「教会知識人」だったことによるということがよくわかった。

 

さらに、それだけでは彼の「天才」は説明できない。私が感じたのは農民的資質である。

 

ニコライは辺鄙な田舎の村の出身で、父は輔祭、いわゆる下級聖職者である。

 

彼の父は、老人になっても酷寒を恐れず、暖かい長靴をはかずという、体が壮健なひとであったそうで、最も近い町まで45キロの道を馬車で森を抜けていくのに、人の往来が途絶える夜中を選んでいた(混雑しないということらしい)ということである。

息子のニコライにもそういった傾向があったという。

 

ニコライは1860年8月にほぼ一ヶ月をかけて、ペテルブルクからシベリアを横断してイルクーツクに着くが、その間も、馬車を雇うこともあれば、自ら馬車を御したりもしたという。

 

つまり、彼の「宗教人としての才能」は、「教会知識人」であったと同時に、ロシアの農民の無骨で安定した気質や、常識的なものの見方、きまじめさ、活力という、クルマの両輪によってつくられているといった印象を受けた。後者のほうは、教育ではどうにもならない、生活に根ざしたものだ。

 

ニコライの日記にこういう箇所があるという。

「自然はわたしにまっすぐな良識と、さほど悪くない性質を与えた。教育はその良識から、奇矯な夢想癖を育て、善良な性質から、不安で疑い深い、ガラスのようにもろいたましいを育てた」(1876.12.20)

 

さて、アムール河からは2ヶ月かけて船旅をするが、ニコラエフスクに着くと、そこはもう氷結していて、とどまって越冬しなければならなかった。足止めを食ってしまったわけだったが、たまたまアラスカのインノケンティ主教が滞在していたので、週末には師の貴重な高話を聞く事ができたのが、のちの伝道事業にどれほどの利益となったか、とニコライは回想しているそうである。

 

「聖書と奉神礼などの祈祷書を、改宗した部族や国民の言葉に翻訳し、正教の土着化を図るべし」というのは、実にインノケンティの教えだったのだという。

 

インノケンティ師は細々としたことまでこの弟子に教えさとしたらしく、「リャサは進学校スタイルのものではダメだ。外国から来た聖職者ということで、日本では皆が注目するだろうから、一目見て畏敬の念を抱かせるよう、ビロードを買ってきてつくらせよ」と指示したのだそうである。

 

あまりに面白かったので、この本を買ってきて、今日午前中に3章まで、戊辰戦争のあたりまで読んだ。

 

御一新前に8年を函館で過ごしたニコライが感じていたのは、幕府は外国人保護に手厚く(ニコライが江戸に行った際も市中見物に大人数の護衛がつけられた)、開国主義だったから、まさか「政治上の革命」が起こるとは思わなかった、のだそうだ。さらに、幕府は、公式には禁教にしていたが、事実上は「黙許」だったので、それが御一新でひっくりかえって、大変だったようだ。

 

このように、正教会のことだけではなく、ニコライの慧眼をもってなされたさまざまな観察が、歴史のあやの微妙な部分を照らし出しており、面白いことこの上ない。