変化

「自分の科が原因なのですが、状況がひどく悪化しているようで、いろいろ不吉なオーメンを見、動揺しています。親族に絡めとられれ、胡乱なビジネスへと向かわせられる未来。急ぎそのことを告げるために、記事を書いたのですが、たびたび書き直したのですが、アクセスがなく、メッセージが伝わらず、途方に暮れています。

 

もう絶望的な状況で、これまでの「強がり」を捨てなければ、生きていくことも難しいのでは…と考えたり。本音の人生しかありえないと、いろいろ書いているのです。

 

クローズしたものについては、本当に申し訳なかったです。

 

けれど、おともだちを不愉快にしただけにとどまらず、環境に大きな変化を起こしたらしく、次々と不安な予兆の夢を見ました。

 

細かいサンの門扉の家に閉じ込められていたり、そこには洋服の大箱があったりしますが、食料品の戸棚からは缶詰などが落下していったりといったように。

 

私の着ている普通の洋服の足元では、ローラアシュレイのプリント地が脚に巻きついていたり。買い物に行った店には、食べ物がほとんどなくなっていたり、といったふうです。見栄えは気にしているけれど、実のない虜囚の生活が見えます。

 

苦しい夢で何度も目覚めました。

 

きわめつけは、私が近未来に、表向きは正義の看板を掲げ、中では裏腹のビジネスに関わるといった夢です。 私自身はそんなビジネスに関わる意図も動機もまったくありませんから、あの記事を書いたことで、おともだちから「別人」へと流れが変わって、そこから出てきた話なのだと思います。

 

そういったビジネスは論外ですし、そもそも、あれほど嫌っている「別人」と私が関わろうはずがありません。また、繰り返し言っているように、出版ビジネスに関わる気持ちももうありませんし、教育分野なども同様です。私自身に関して言えば、です。

 

漠然とですが、あなただったら日本的なビジネス、たとえばこのあいだの金箔とか金粉に関わるものだったりなど、篆刻もそうでしたけど、工芸分野のものなどができるのでは…と、考えたりもします。そうした分野では日本に作家や職人はいるのでしょうが、

海外の視点をもって、広く橋渡しをできるような人材はあまりいないのでは。 

 

自然とか野外活動に関するものとかも、ビジネス化していますし。私もいろいろ行ったことがあります。

 

誤解のないように付け加えると、先日間違ってとった電話は「別人」ではありません。福祉系の団体からのもので、メールで説明した、ファクスを送ってトラブルが生じてしまったところからのものでした。

 

もし万一、このような蹂躙の流れが迫ってきたとしても、強い意志をもって押し返しますから、どうぞ私を信じてください。

 

そこは、いえ、端的に言えば、おともだち以外の世界は、母の支配する虜囚人生の世界なのです。そこで死ぬまであくせく働かされる未来です。

 

 

ひとつ前の記事ですが、クローズしました。謝ってばかりですが、本当に申し訳ありません。

 

非常に不快な気分にさせてしまったことと思います。

 

どうしてこんなに思慮が浅いのか自分でも恥ずかしくなります。現実と夢想をとりまぜたようなことを書いたりして…。さらに、自分自身の心理状態の反映ともとられかねない、前段の夢のことなど。

 

非常に不愉快な内容だったことを、伏して謝りたいのです。が、謝って済むような簡単なことではない、重い、嫌な話でした。

 

本当にごめんなさい。今度ばかりは許してくださいとお願いするのも憚られます。

けれど、思慮浅きものの愚かな行動として、今一度許してもらえないでしょうか。

心からごめんなさい。

以前、メールに書いた、当時悩んでいた「例のこと」ですが、あのとき、表に出したことでとても気持ちが楽になったにもかかわらず、その後について報告をしていなくて、すみませんでした。

 

それは、穏便なかたちで処理することができたので、安心してください。あのように性急に訴えながら、その後そのことに触れなかった不首尾、ほんとうにごめんなさい。

勝手でしかなかった態度を許してもらえるでしょうか。お願いします。

 

 

電話は原則とらないことにしているのですが、今晩電話が鳴って、間違ったインスピレーションでとってしまいました。

 

電話をとってしまったため、簡単に話を聞かざるを得ませんでしたが、今後のこともあるので、私自身体調があまりよくないことを告げ、控えてくれるよう、匂わせて終わりにしました。

 

このことで、おともだちが嫌な気持ちになりませんように。

記録

9月が終わって、10月に入ったついたちの晩、一つの夢を見ました。

 

5歳くらいの浴衣を着た女の子がいて、顔に泥がべったりついています。次のシーンではその子は床に倒れていました。

 

たぶん、泥がついている理由が、「床に倒れている」ということなのでしょう。そうして、それは私であると分かりました。

 

その後、夢のなかでいろんな事実が明らかになっていき、それは私もおぼろげながら感じていたインセストを暗示するものでした。私はぼんやりと「ああ、やっぱりそうなんだ。そうだったのだろうな」という虚脱した印象しか持ちませんでしたが、衝撃を受けたのは、親族、つまり母や妹もそれを「知っていた」という事実でした。

 

そうして、過去のいろんなことがジグソーパズルのように形をなしていきました。

 

去年だったか、夢のなかで、私の人生の蹉跌はここから始まったと、昭和25年の何月だったかが暗示されました。父母が結婚したのは、私が生まれる1年前ですから、それより1年前、おそらく、お見合いの時期だったのではと思います。

 

祖母(母の母)が息子(伯父)夫婦と東京で暮らすことになったので、祖母は急ぎ見合いをさせて、娘を「片付けよう」と思ったようです。もし、そこで、母が祖母たちと上京していれば、また人生は違っていたことでしょうが。

 

見合いの相手の父は、母親が花柳界出身であり、複雑な家庭状況で、いかに学歴や職業がしっかりしたものであっても、普通は二の足を踏む条件だと思いますが、そんなことにこだわらない「開明的」な祖母の決断と聞いていますが、単なる「急ぎ片付け(嫁づけ)」だったのか、こころの中まではわかりません。

 

二人が結婚して私が生まれたわけですが、母が祖母のつくった新婚旅行用のスーツを着て立っている夢を見たこともかつてあります。そこに現れる、何か忌まわしい感じの中年男の大きな影。父は母より一回り年上でした。

 

1日の夢以前に、10年近く前に見た夢では、やはりその浴衣の女の子が出てきて激しく泣いており、イチジクの木が見えました。幼稚園から小学校にかけて住んでいた家にはたしかにイチジクの木が古い物置のそばにありました。夢のなかで、父は雨のように涙を流しているようでした。イチジクは漢字で書くと無花果

 

その夢の時には、T子葛藤という言葉と何かを聞きましたが、それが新婚旅行で起こった何かなのか、あるいは、その後の葛藤なのかは判然としませんが…。

 

このように、古い、繰り返される夢が1日の夢によって収斂していき、明白になるとともに、そこに浮かび上がったのは、単なる加害者、被害者関係というよりは、家族全体の歪んだ姿でした。誰も知らなかったわけではなかったのです。

 

夢の語りによれば、私の人生のいろんな障害はここに由来すると。家族関係です。

 

自分で意識している大きな蹉跌に、19歳のときの、大学再受験があります。

 

入った大学が自分とあまりに合わないために、時々、「不満組」のクラスメートと語らっていましたが、たまたま訪ねた伯母の家でそれを話すと、帰省して早く親に話して再受験したほうがいいと、強く背中を押されたのです。

 

しかし、郷里で私を待っていたのは、期待していた共感とか励まし(もちろん反対も想定していましたが)ではなく、母は「失敗したら、T大学だからね」と地元の大学を名指ししたのです。私は再受験の際は、当然のように、私大を滑り止めに考えていたのでしたが。

 

当時まだ高校生だった妹は、この話がもちあがったときから、じっと状況を観察していたのでしょう。翌日だったか、茶の間で、「おとうさんが、あの子のようにお前はなるな」と言っていたんだ、と、一言もらしたのでした。

 

そのときの衝撃は今でも覚えていて、食器戸棚のガラスが歪んで見えました。アタマの中も真っ白になって。そうして、「あのひとたちを信用してはいかんよ」と言ったのでした。

 

今から考えると、なぜそんなことを言ったのか、正確にはどういう言葉を本人が使ったのか、伝聞でしかないので父に確かめればよかったのでしょうが、19やそこらですから、ただただ衝撃を受けて、親を恨む気持ちが募るだけした。さらに、追い打ちをかけるように、最初は背中を押した東京の伯母も、我関せずといった対応でした。

 

そうして、再受験することにして帰京しましたが、実際に受験勉強を始めてみると、苦手の数学が、学校を離れてみると困難が多く、地元の大学へ行くことは絶対に嫌だったので、諦めた事情がありました。もちろん普通に大学へは通っていましたが、そこから撤退してしまったことで、自分のなかでは大きな心理的挫折感を抱えるようになりました。

 「不満組」の一人は翌年志望校に合格、その彼女が先日夢に現れて、「サヨナラ」と手を振って離れていく姿を見ました。

 

私が、嫌悪感を感じる人間でありながら、なぜ、「あの男」とつきあったかといえば、

この時期にちょうどあたります。自分のこころのなかに生まれた家族への不信感から、

もともと実家とは親戚同士であるけれど、仲がよくない家の者がまるで運命の足音のように近づいてきて、そこに逃避したのでした。

 

私が再受験しようとして挙げた関西の国立大の欧州文学の専攻には、翌々年、妹が進学しました。今から思うと、彼女に本来的な動機があろうはずもなく、私の諦めた道を目指した、屈折した動機があったのかと思います。まるで、影が私を追っているようでした。

 

両親についての指摘があったため、妹はこちらに同情的なのかと思っていましたが、今から考えるとそういうわけでもない、複雑な言動でした。のちに、私はあのときの妹が言った「あの子のようになるな」という言葉を、オセロに囁くイヤーゴの言葉のように思い、両親との仲を割くような一言だったのだと思いましたが、しかし、その両親はようやく今わかりましたが、すでに私を再三再四裏切っていたわけだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

先に書いた記事ですが、書いたことを、とても後悔しています。

 

というのは、このブログを再開してから、前以上に何を書くべきかナーヴァスになっていて、昨日書いた誤認事件のことは、自分がどうしても今伝えたいという火急の内容だったので逡巡なく心のままに書けたのですが、今日はアクセスのインタバルが少し長くなってきて、不安になり、何か書かなくちゃと思い、別の、季節のうつろいのことなどを書きました。

 

しかし、何を言いたいのかわからない内容になってしまい結局クローズに。それならば身辺雑記として、身辺のことを書こうと思ったのです。

 

そこまではよいのですが、あの、質素倹約的な生活の細々を書きながら、私は、これならおともだちが気に入ってくれるだろうと、おともだちの目線を測り、感じながら、書いていたのでした。

 

もちろん文章というのは相手あってのことですから、それが悪いわけではないのですが、いくつもの例を挙げ、結果的に、おともだちに媚びていたということに今気づきました。

 

書いたあとで、なんとなくもやもやした気持ちがあるのが多分その証左だったのでしょう。

  

さらに、その後、貧乏くさい印象を与えるのではと思い、唐突に、二つのパラグラフを末尾に加えて、「倹約という洗練」といった奇妙な議論を展開しました。

 

全体を通してみると、本当に赤恥ものです。中でも一番よくないのは「媚びている」ことです。

 

文章は真実から離れると突然つまらなく、味気ないものになってしまいます。自分で書きながら、そこには真実味がないことが明白に感じられました。

   

おともだちは、性急に「その人らしさ」を捨て去りつつある私に、何かしら当惑を感じていたのではないでしょうか。

 

ましてや、そうした「変化」を媚びる材料として使っている、あの記事の、何とも言えない印象、それをおともだちは真実味に欠けるように感じていたのではないかと思います。

 

焦らずに、もうちょっとこの点をよく考えてみたいと思います。振り向いてもらいたいというときは誰しも「媚び」がちではありますけれど…。

最近は新しいものを買うことがあまりなくて、家のなかにあるもののなかで賄うようにしているので、そうした仕事というほどでもないけど、つくる仕事がいろいろ出てきている。

 

家計簿なども既成のものを買うのではなく、古いノートに自分で罫線を引いて、使うようになった。過去のものを雛形にしてつくるが、自分流にアレンジもできる。といっても、飾り立てたりするのではない、地味なものである。

 

原材料のノートすらも、新品を買うことはなく、古い使いかけのものの残りを使ったり、未使用部分をバラして、新しい束にして使ったりと、工夫の日々である。

 

こうやってみて初めて、家にはたくさんのノートが使いかけで残っているのを見つけた。もちろん皆私のものなのだけど。いわゆる大学ノートもあるけれど、大小さまざまの使いかけのノートがあるのは、デザインなどが気に入ってあれこれ買った名残だろうと思う。もったいないの一言に尽きる。

 

手帳を買ったのも、2017年のものが最後で、今年のは買っていない。とくに必要がないからである。だいたい17年のも、空欄ばかりであったから、今年は買わないことにしたが、それでも何の不自由もない。

 

だいたい、私は重い大きな手帳は嫌いで、いつもベーシックな600円くらいのものを

ずっと使っていた。小さい字で書けばそれで十分なのである。それさえもいらなくなったわけだった。

 

それほどクラフトなどに嵌るタイプでもないので、カレンダーもお手製ではあるけれど、OA用紙に雛形を簡単に写し取っただけのもの。それでも十分役に立つし、あれこれ写真などがあるよりよほどスッキリしている。

 

ノートをバラして綴じるのもとくに手はかけずダブルクリップで止める程度だが、そういえば昔は、「こより」というものがあって、紙類はこよりで綴じていたなあなどと、懐かしく思ったり。

 

それと、紙類を買わなくなったので、レシートの裏までメモ用紙に使ったりと、紙をだいじにするようになった。

 

つくり込むということはわざわざしないけれど、手近にあるものを組み合わせて、少しの創意工夫をしていくのは結構楽しいことだなあ、と。

 

ただし、最後に強調しておきたいのだけど、これはリサイクルやエコの精神と倹約、

世界語にもなった「もったいない」の精神から来たもので、貧困由来のものとはまったく別物ということを間違えないでほしいのである。

 

質素ななかにも、倹約という洗練を展開していく、それが眼目である。身動きのとれない「欠乏」の精神とはまったく異なる、いや、正反対のものといえよう。