最近は新しいものを買うことがあまりなくて、家のなかにあるもののなかで賄うようにしているので、そうした仕事というほどでもないけど、つくる仕事がいろいろ出てきている。

 

家計簿なども既成のものを買うのではなく、古いノートに自分で罫線を引いて、使うようになった。過去のものを雛形にしてつくるが、自分流にアレンジもできる。といっても、飾り立てたりするのではない、地味なものである。

 

原材料のノートすらも、新品を買うことはなく、古い使いかけのものの残りを使ったり、未使用部分をバラして、新しい束にして使ったりと、工夫の日々である。

 

こうやってみて初めて、家にはたくさんのノートが使いかけで残っているのを見つけた。もちろん皆私のものなのだけど。いわゆる大学ノートもあるけれど、大小さまざまの使いかけのノートがあるのは、デザインなどが気に入ってあれこれ買った名残だろうと思う。もったいないの一言に尽きる。

 

手帳を買ったのも、2017年のものが最後で、今年のは買っていない。とくに必要がないからである。だいたい17年のも、空欄ばかりであったから、今年は買わないことにしたが、それでも何の不自由もない。

 

だいたい、私は重い大きな手帳は嫌いで、いつもベーシックな600円くらいのものを

ずっと使っていた。小さい字で書けばそれで十分なのである。それさえもいらなくなったわけだった。

 

それほどクラフトなどに嵌るタイプでもないので、カレンダーもお手製ではあるけれど、OA用紙に雛形を簡単に写し取っただけのもの。それでも十分役に立つし、あれこれ写真などがあるよりよほどスッキリしている。

 

ノートをバラして綴じるのもとくに手はかけずダブルクリップで止める程度だが、そういえば昔は、「こより」というものがあって、紙類はこよりで綴じていたなあなどと、懐かしく思ったり。

 

それと、紙類を買わなくなったので、レシートの裏までメモ用紙に使ったりと、紙をだいじにするようになった。

 

つくり込むということはわざわざしないけれど、手近にあるものを組み合わせて、少しの創意工夫をしていくのは結構楽しいことだなあ、と。

 

ただし、最後に強調しておきたいのだけど、これはリサイクルやエコの精神と倹約、

世界語にもなった「もったいない」の精神から来たもので、貧困由来のものとはまったく別物ということを間違えないでほしいのである。

 

質素ななかにも、倹約という洗練を展開していく、それが眼目である。身動きのとれない「欠乏」の精神とはまったく異なる、いや、正反対のものといえよう。