桜二分咲き

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週末はまた天気が崩れるというので、昨日は大公園に散歩に出かけた。木によっては、桜も2分咲きぐらいのがあるが、まだまだという感じだが、春休みということもあって、たくさんのひとがピクニックを楽しんでいた。子供達はもう半袖で走り回っていたりした。

 

 

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茶亭の庭をぐるりと回り、菜の花の花壇や椿のアーチなどを抜けて、あちこち歩きまわった。この季節は、木蓮や辛夷、連翹、水仙まで咲いていて、桜の季節への橋渡しをしているかのよう。

 

 

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雨降り続く

昨日から雨が続いている。ベランダに置いた、先日買ったゼラニウムの小さな鉢植えにも水遣りをしたいのだが、このお天気でちょっとためらっている。

 

このあいだ、デイヴィッド・ロックフェラーが亡くなったというニュースが流れたが、

今上天皇訪米のときに、自邸に招かれたことまでは知らなかった。

 

昭和天皇が75年に訪米したときは、やはりロックフェラー家に招かれ、歓待を受けた

ことは知っていたけれど。

 

あと2年で、引退する天皇は「上皇」となり、御所も現在の東宮御所と交換して、引っ越し、新たに仙洞御所として住まうことになると報道されていた。

 

以前、このブログでも、松本重治翁のお通夜でロックフェラー氏と遭遇したことを書いたけれど、http://amethyst.hatenablog.com/entry/2015/08/31/212837

すいぶん前のことだが、それでも、こんなに年寄りになっているかなと思い、調べてみたら、私の遭遇したひとは、ジェイ・ロックフェラーだったようだ。

 

松本重治は在野にあって、日米関係に尽力した、歴史的な人物だが、日米関係は日中関係といったようなことをいつも言っていた。彼は近衛文麿と親しかったから、昭和天皇のことをどう思っていたのだろうか。

 

彼は聖公会の臨終洗礼を受けて、パウロの霊名をもらった。

 

ロックフェラー死去のニュースを聞いて、教会の夕刻の暗さと、長身のロ氏の影、霊名のパウロのことを、ふと思い出した。異邦とのつきあいに生涯をついやした翁にはふさわしい霊名かもしれない。もう30年前のことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真情

天気はよいものの、寒さはまだ居座っている弥生。東京では桜は開花宣言があったけれど、ずっと寒いので、満開は4月2日あたりらしい。

 

今日は、大阪豊中森友学園国有地払い下げ問題で、国会での、学園理事長証人喚問があったので、朝からテレビを見ていた。午前中は参議院予算委員会での証言(結構尋問的であった)、午後は衆議院でのものである。

 

政治家の関与があったか、なかったか。また、財務局などへ政治の圧力があったか、なかったか。安倍首相夫人からの寄付があったか、なかったか、などが争点になっている。

 

国会では、参考人招致と異なり、証人喚問は虚偽の発言をすると偽証罪に問われる重いもので、私も初めて見たが、証人が最初に宣誓をし、署名、捺印をして始められる。

参考人として招致することをずっと自民党は渋っていたのだが、急転直下、一週間前に、証人喚問というシビアなもので応諾したのは、彼らの戦略であったのだろう。

 

私は、このきわめて国粋的な教育方針の学校にはまったく賛成できないし、これが開校できなかったことは生徒や社会のためにもよかったとは思うが、一連のこの事件(疑獄ともいわれるが)を見るにつけ、安倍首相夫妻、稲田防衛大臣(所属事務所がこの学園と顧問契約を結んでいた)、大阪府知事といった、いわゆる保守の大物政治家たちが、かつての「盟友」を持ち上げるだけ持ち上げておきながら、一旦、世間から批判されると、簡単に、「盟友」を切り捨て、ひたすら関係のあったことを否定していることに、胸が悪くなっていたのであった。

 

だから、この理事長の「教育理念」には賛成できないものの、今日4、5時間視聴して、彼が嘘をついていないこと、まったく本音で話していることがよくわかった。そして、これまで熱心に支持してくれていたのに、皆が保身のために、急に手のひらをかえしたことに、非常に怒っている気持ちに共感した。

 

そもそも、この問題は、国有地の払い下げ価格が低すぎるのではないかと疑問が持たれて、豊中市議が質問状を出したところ、担当の近畿財務局が売却価格を非開示にしていたことがわかり問題になりだしたのである。当然誰もが何か不透明なことがあったのではと思った。

 

今日の質問の中で、3月にはいって、急に、それまで言わなかった安倍首相夫人からの寄付(「安倍晋三からです」と言って渡されたと理事長はいっている)100万円のことを言い出したのはなぜかと聞かれて、理事長が答えた内容、というか述懐のような言葉に私は胸をうたれた。

 

ゴミが埋まっていた問題があり、価格が急に下げられた経緯とか、いろいろな問題はあったし、教育方針への批判は受けてたつつもりだったのだろうが、安倍首相夫妻が彼との関係を否定し出したことから、「なんかおかしいな、自分は騙されているのかな、

ということは、国民も騙されていることにならないか。風向きが変だ。自分だけがひどく悪者にされている…」と思い出して、寄付の話を公表したのだという。

 

安倍夫妻や稲田大臣が関わりを否定しだし、さらに、財務局の官僚からも、「あんたは10日ほど姿を隠していてほしい」と弁護士を通していわれ、ホテルに缶詰になっていたうちに、巷では、彼の経歴詐称や認可要件の不足やら何やらバッシングが始まったのだった。

 

「公権力」などというのは、いわゆる、「左翼」の決まり文句であるはずなのに、今日は、理事長は、「何か風向きが変わってきた。公権力が自分の悲願だった学校設立をダメにしただけでなく、自分という人間の人権を押しつぶしつつある」という印象をひしひしと感じたのだそうだ。

 

政治的な右左をいうのもナンセンスではあるが、この超保守派で、元は安倍首相を「偉人」として尊敬していたひとの疑惑を晴らそうと頑張っているのが、野党議員という、

ねじれ現象になっているのが興味深くもある。

 

いわゆる、関西人の典型みたいなへんな「おっさん」みたいな人だが、話には虚偽の匂いがしなかった(また、偽証罪に問われるので、危険でもある)。とても真摯なものを感じた。自民党公明党・維新など、与党議員の質問は、この証人に対して、さんざん「偽証罪」を持ち出して、恫喝、おどかし、の念押しをしつつおこなっており、おそらく、どこかに瑕疵を見つけたり、誘導尋問でボロを出させようとしたのだろうが、テレビで中継されると、この「おっさん」のほうが表情からいっても真摯に話していることがよくわかり、むしろ逆効果だったと思う。

 

さらに、与党の失敗は、彼が「安倍晋三記念小学院」という名前を使って寄付集めをしたことなど、枝葉末節のことで論難していたが、問題は、国有財産の払い下げの不透明な経緯なのである。論点ずらしもいいところだった。詐欺師、嘘つきを証明しようとやっきになっていた。

 

彼は、学校認可申請も取り下げたし、また、学校の資産も建設費などの未払いで、行政から「差し押さえ」が入り、もう失うものはないから、強いのかもしれない。学校の負債総額は19億とかになるらしい。認可申請取り下げも弁護士の助言だったというが、その弁護士も、その助言のあと、すぐ、顧問をやめたという。取り下げをしていなければ、大阪府に賠償請求もできたかもしれなかったのだが。

 

あらゆる「仲間」に裏切られた「おっさん」の真情切々の証人喚問だった。もともとは嫌いなある野党議員がいたのだが、弁護士出身で、さすがに、鋭い質問の連鎖で、法廷ドラマを見るようで、安倍夫人の関与に迫っていた。

 

実は、この証人喚問はNHKは中継するとは明言しておらず、高校野球や相撲との兼ね合いが難しいといっていたのだが、これを中継するようNHKに電話しようというムーヴメントがインターネットを通じて拡散され、それでなくても、受信料不払いが増えている昨今だからだろう、視聴者の圧力が、中継を可能にした。

 

夜は、外国人特派員協会で証言するらしいので、また新事実がいろいろ出てくるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

追想

19度ぐらいの気温の、いかにもお彼岸らしい、うらうらと暖かい日だった。春がくるのがほんとうに嬉しい。運動不足なので1時間ぐらい公園を散歩した。

 

ふと、また昔のことを思い出した。ときどき思い出すことなのだけど、ずっと昔の秋の日に、翁を訪ねたことがあった。

 

晩秋だったと思う。「入園者のひとたちがつくっている菊花展があるから、見に行きましょう」と、翁の家を出て、なにか古い木造の、校舎のような小さな建物に展示してある菊を見たのを思い出す。

 

体の不自由なひとも多いわけだから、ずいぶん上手につくってある、丈の高い菊の鉢植えが並んでいたが、もっと立派なものは他でいくらも見たことがあるわけだし、正直なところ、普通のできばえと言ってよいものだった。数としても、そんなにたくさん展示されていたわけでもなかったと思う。

 

療養所自体が寂しいところであるし、そのあまりぱっとはしない展覧会を見ると、なんだかますます寂寥感がこみあげてきた。

 

今でも覚えているのは、その近くに池か湖があって、それを見に連れていかれたことであった。その池もうらぶれた感じがして、弱々しい秋の光のもとで寂しげだった。自然の池というよりは、人造湖のような感じがしたが、ため池だったのだろうか。

 

翁のことを聞くために数年前に園に出かけたときに、この湖のことを入所者のひとに尋ねてみたが、もうなくなったのか、それとも、ごくごく小さなものだったのか、「はあ?」という返事であった。

 

菊花展の会場もおそらくもう取り壊されていたのだろうと思う、それらしいものはなかった。いかにも昭和を感じさせるレトロなものだったから。

 

もっと違う季節に出かけたこともあったはずだが、なぜか、このうら寂しい秋の日のことが記憶に強く残っている。

 

自宅での会話や出自への誇り、神話的にもなっている家系の話といった、東京で会う翁とは違った、「現実」に触れたせいかもしれなかった。

 

翁自身は別にそれを感じていたわけではないだろうが、私はなんともいえない、「うらさびしさ」を翁にも、園一帯にも感じたのだった。「わびしさ」といってもよい。

 

それにしても、なぜこの菊のことだけを妙によく思い出すのだろう。翁の誕生日が重陽節句だからなのだろうか。わからない。

 

 

 

 

 

 

郷愁

今日は今年初めて、ダウンコートを着なかった日。暖かくはなったが薄着だとまだ肌寒い。垣根には名残の山茶花が元気に咲いている。

 

ずいぶん昔、病院の待合室で上品なおじいさんに話しかけられた。そのひとは90歳近くだったか、この歳になると、友人も皆亡くなってしまい、寂しい限りという話を、問わずがたりに話されたことがある。当時40台だった私は、相槌はうったものの、ピンとは来ない話だった。

 

最近、昔のことをふと思い出す。もう亡くなったひとばかりだが、草津翁やセラフィム君のことだったりする。しかし、よく考えてみると、懐かしいのは彼ら個々人というより、その「時代の雰囲気」であるようだ。

 

今の駿河台の外国人はロシア系といっても、ソ連時代に生まれたり育ったひとたちであり、70年代のように、まだ亡命露人あるいはその家系の人々が少しはいた時代と異なっている。その違いは実は大きい。いうに言われぬ、「空気感」のようなものが違っている。いまは失われた「ひとつの時代」。

 

あるいは、「時間の流れ」のありようというか。

 

かつて、一度だけ、今の府主教館の後部にある、露西亜人倶楽部で、お茶をご馳走になったことがある。セラフィム君たちと行ったような記憶だが、倶楽部のおばあちゃんが紅茶を入れてくれた。天井が高く、家具とかは覚えていないが、その変哲のない白い紅茶茶碗とソーサーは今でも目に浮かぶ。

 

そこに流れていたのは、帝政期と「地つづき」のある種の「時間」だったのかもしれない。

 

ぺちゃくちゃと小鳥のさえずりのようなバブシュカのたわいのないお喋り、紅茶の香り、それに礼儀正しく耳を傾ける紳士たち、といった、とりたててどうということのない一つの思い出だが、そういった時間は今は求めるべくもない。「時」と「ところ」と「人」、これらすべてが揃わないと。永遠に戻っては来ない時間。

 

あの倶楽部の部屋は今は図書室になっているようで、ドアがオープンになっているときに、ぎっしりと並んだ書棚が見えたような気がする。

 

紅茶を入れてくれたバブシュカもとうに鬼籍にはいっていることだろうし、その日そこにいたひとで生き残っているのは、私ぐらいのものだろうか…。

 

帝政時代がすべてよかったというつもりはないが、ある「文化」がそこで途絶えてしまったのだろう。でも、帝政の残照のかけらのかけらぐらいの、この小さな思い出を持っているだけで、私は幸運かもしれない。本を読んでも、話を聞いても、体験しないとわからない、「時空」というのがある。

 

「なんか違う」と思うのは、「かつて」を知っているからこそ。

 

翁たちともう一度お茶を飲みながら、たわいないことをお喋りしたいと思う。幽霊たちとのお茶会になってしまうだろうけど。

 

 

 

真冬に逆戻り

朝から真冬のような寒さ。風も強い。あさっては彼岸の入りで、そのあたりから、ようやく暖かくなるらしい。文字どおり、暑さ寒さも彼岸まで、の言葉どおりに。

 

昨日は銀座のクリニックへ。ずっとお腹の調子がおかしく、たまたま以前処方してもらって残っていたミヤBMというミヤリ酸(乳酸菌)の錠剤で結構改善したので、それを

3ヶ月分出してもらった。涙液状の目薬なども。本当は眼科へ行かなければならないのだが、とりあえず処方薬のほうが安価なので…。

 

今年初めての銀座だが、行くたびにガッカリしてしまう。目抜き通りは皆、海外ブランドのショップになってしまっているからだ。表通りだけではない。並木通りのような、いわば裏通りにも、結構ブランドショップがある。銀座らしい小さなお店はいまやほとんどないにひとしい。昔阪急デパートがあったところに、今は東急プラザがあるが、

ここもブランドだらけ。これでは世界中どこへ行っても同じでつまらない。

 

裏通りに「越後屋」という呉服屋があって、反物などが飾ってあったが、よく時代劇などで「越後屋、おぬしもワルよのう」というセリフがあったりするので、思わず笑ってしまった。

 

12日から大相撲春場所が始まった。今日は夕方、ご飯が炊けるのを待ちながら、相撲中継を見つつワインを飲んでいた。場所が終わるのが26日。24日が東京の桜の開花だというから、その頃には桜もかなり咲いているだろう。

 

春はすぐそこまで近づいている。

 

パニヒダと本

春らしい陽気になった。風はまだ寒いものの。地面に蓄熱された暖かさを感じる今日このごろ。

 

昨日は、東日本大震災の犠牲者のためのパニヒダがあるので、駿河台へ行った。地震発生の14時46分きっかりに、鐘が鳴って、奉事がはじまった。

 

午後の時間は聖堂拝観者がロープを張られた啓蒙者スペースにいて、さらに土曜日ということもあって、鈴なり状態だった。

 

残念なことに、信徒参祷者は聖職者以外は数人で、聖歌隊もいない、後ろで参観者がギッシリという妙な状態だった。人数の多寡ではないというものの、会堂がギッシリみたいに予想していた私は驚いた。終了してから、隣の初老の女性に「いつもこれぐらいなのですか?」と尋ねると、「昨年から始まったんですよ。主教さんがやろうとしないから、私が文句を言いにいきました。東北では主教司式で参列者も多いというのに…」と。たしかにこちらは司式は主教ではなく、よくアトスに行っているというN師(自給司祭)だった。

 

むしろ、参観者のほうが、普段はイコンや歴史などの説明を聞くだけなので、興味深そうに奉事を見守っていた。

 

その後、ちょっとコーヒーを飲もうと、聖橋口近くにある喫茶店Hへ入った。ここは

昔は来たことがなかったのだが、最近コーヒーがたいそう美味しいことを発見してから、ごく稀にだが来ている。

 

ここは山岳と出版関係のひとのたまり場らしく、60年代の雰囲気があって、喫煙。何か読むものがないかな、と書棚を見たら、手前に「ニコライ」という本が置いてあった。とってみると、評伝シリーズの一冊で、このシリーズにニコライ主教のがあったのか、と驚いて、席に持って読み始めた。たいそう分厚い本である。

 

著者はニコライの日記を訳した一人でもあり、私もこれまでいくつか読んだことがある人だが、この評伝は目からウロコが何枚も落ちる面白さで、時間が経つのをすっかり忘れて読みふけってしまった。この本の存在を知らなかったなんて。

 

大変興味かったのは、私はニコライ・カサートキンはある種の宗教的逸材というか天才みたいなもので、それを個人の資質だと思っていたのだが、もちろんそれはあるとしても、時代背景が大いに関係していたということを知った。これまでの、聖職者などが書いた評伝では抜け落ちている視点である。時代のダイナミズム。

 

ニコライが日本にわたった1860年ごろは、クリミア戦争で敗退したロシアが、自らの後進性を克服すべく、アレクサンドル二世の農奴解放令にはじまって、さまざまな改革がすすめられた、いわゆる「大改革」の時代だったということだ。

 

ニコライはスモレンスクの中等神学校から、サンクトペテルブルクの神学大学へ進んだわけで、帝政ロシアの支柱ともいえるロシア正教会のいわば幹部候補生だったのだが、

驚いたことに、函館の領事館付き司祭というポストにつく卒業生を募ったところ、ニコライも含め12人ぐらいの応募があったという。従来なら国内で高位聖職者への階段をのぼっていくコースにいる者たちのなかにも、大改革時代の理想主義の風が吹いていたからではないかという。ポスト自体はたいしたものではないので、宣教ができることに魅力を感じた若者たちが多くいたことになる。

 

ニコライが即決になったのは、彼のみが修道司祭として赴任することを希望し、あとは皆妻帯司祭志望者だったためだそうである。

 

また、この司祭の派遣をもとめた函館領事のゴシケーヴィチだが、日本はまだ厳しい禁教下にあったが、宗務院に、「領事館付き司祭は、同時に日本でキリストの教えを宣べ伝えることができるだろう」と書いていることは、注目すべきことである。

 

そもそもゴシケーヴィチ自身が神学大学出身で、清国宣教団のメンバーとして10年近く北京に滞在、その後、外務省に転じたのであったが、そういった「転職」は当時のロシアではよくあったそうである。

 

この本で目からウロコだったのが、このゴシケーヴィチなどの例もそうだが、当時の時代背景として、いわゆる西欧の進歩派の影響を受けた「インテリゲンツィヤ」に対抗するものとしての、「教会知識人」という存在を、著者が再三再四強調していることである。

 

田舎の教区司祭と異なり、当時のロシア正教会の指導層は、ギリシャ語、ラテン語を学び、神学や教会史のみならず、貴族階級の知識人と同じ書物や雑誌、新聞を読み、流行思想にも通じている存在だったという。

 

当時のロシアは強固な身分制社会だったが、高位聖職者になれば、その出自に制限されることなく、上層階級に出入りすることもでき、社会的な活躍も可能で、身分の壁を超えることができた。

 

ニコライが、だから、東京で欧米の宣教師たちと交遊したり、議論することができ、さらに彼らの尊敬をさえ集めるようになったのは、彼がそうした「教会知識人」だったことによるということがよくわかった。

 

さらに、それだけでは彼の「天才」は説明できない。私が感じたのは農民的資質である。

 

ニコライは辺鄙な田舎の村の出身で、父は輔祭、いわゆる下級聖職者である。

 

彼の父は、老人になっても酷寒を恐れず、暖かい長靴をはかずという、体が壮健なひとであったそうで、最も近い町まで45キロの道を馬車で森を抜けていくのに、人の往来が途絶える夜中を選んでいた(混雑しないということらしい)ということである。

息子のニコライにもそういった傾向があったという。

 

ニコライは1860年8月にほぼ一ヶ月をかけて、ペテルブルクからシベリアを横断してイルクーツクに着くが、その間も、馬車を雇うこともあれば、自ら馬車を御したりもしたという。

 

つまり、彼の「宗教人としての才能」は、「教会知識人」であったと同時に、ロシアの農民の無骨で安定した気質や、常識的なものの見方、きまじめさ、活力という、クルマの両輪によってつくられているといった印象を受けた。後者のほうは、教育ではどうにもならない、生活に根ざしたものだ。

 

ニコライの日記にこういう箇所があるという。

「自然はわたしにまっすぐな良識と、さほど悪くない性質を与えた。教育はその良識から、奇矯な夢想癖を育て、善良な性質から、不安で疑い深い、ガラスのようにもろいたましいを育てた」(1876.12.20)

 

さて、アムール河からは2ヶ月かけて船旅をするが、ニコラエフスクに着くと、そこはもう氷結していて、とどまって越冬しなければならなかった。足止めを食ってしまったわけだったが、たまたまアラスカのインノケンティ主教が滞在していたので、週末には師の貴重な高話を聞く事ができたのが、のちの伝道事業にどれほどの利益となったか、とニコライは回想しているそうである。

 

「聖書と奉神礼などの祈祷書を、改宗した部族や国民の言葉に翻訳し、正教の土着化を図るべし」というのは、実にインノケンティの教えだったのだという。

 

インノケンティ師は細々としたことまでこの弟子に教えさとしたらしく、「リャサは進学校スタイルのものではダメだ。外国から来た聖職者ということで、日本では皆が注目するだろうから、一目見て畏敬の念を抱かせるよう、ビロードを買ってきてつくらせよ」と指示したのだそうである。

 

あまりに面白かったので、この本を買ってきて、今日午前中に3章まで、戊辰戦争のあたりまで読んだ。

 

御一新前に8年を函館で過ごしたニコライが感じていたのは、幕府は外国人保護に手厚く(ニコライが江戸に行った際も市中見物に大人数の護衛がつけられた)、開国主義だったから、まさか「政治上の革命」が起こるとは思わなかった、のだそうだ。さらに、幕府は、公式には禁教にしていたが、事実上は「黙許」だったので、それが御一新でひっくりかえって、大変だったようだ。

 

このように、正教会のことだけではなく、ニコライの慧眼をもってなされたさまざまな観察が、歴史のあやの微妙な部分を照らし出しており、面白いことこの上ない。