桜が咲いてから、強風の日が続き、今日は雨。それでも今年の桜は完全開花してないので、長くながらえている。
昨晩は、高齢の伯母の訃報の電話が親戚からあり、この電話がまだ使われていてよかった、などと言われた。携帯の番号を変えてから、一度だけ電話したことがあったので、古い履歴をたどったのかもしれない。
そのあと、こんな風に親族と連絡を絶っているのはよくない、とか、母親が亡くなったらその後の生活をどうするのか、もっと自分を大事にしなさいとかなんとか、親切なのかもしれないが、人生訓めいたものが続いた。私は年金と貯金の取り崩しで生活はしているが、母親とは別会計なのだが、同居していると思っているのだろう。
この親戚は、かつて家を借りるときに保証人を頼んだら、ハンコは銀行の金庫にあって、取りに行く暇がないとかぐずぐず言って断ったのであった。
お悔やみを述べながら、丁寧に対応はしたものの、「わかってないなあ」と思った。
本当の「友達」というのは、困ったときにさりげなく手を貸してくれる存在であるはず。
人間はひとりだけで生きていけないというのは本当だが、私は「選択」をしているのであって、絆がないわけではないのだと、反論した。(まあ、それは強気発言で、実際はそんなにはないが)
そうはいっても、身の振り方はずっと私を悩ましてきたことだったのは事実だ。来週からはかつての仕事仲間から少しずつ様子を聞いてみよう。
私がずっと逡巡していたのは、おともだちが帰ってくるのかどうなのかと期待していることがベースにあったのだけど、そうやって待たれても、かつて「期待しないでくれ」と言われたように、負担かもしれないし、自分としても無為の苦痛というのもあるし、見通しの立たない不安もある。
どうして、再度音信不通になってしまったのだろう…。