テレビでは台風が浜松に上陸したということで、災害情報を時々刻々伝えているわけだが、先週は御嶽山、今週は台風というように、必要以上に半ば慣性のように流しているのには疑問を感じる。
出社するとか、外出を変更するとかは各自判断すればよいわけだし。
これではまるで世界が災害のみで成立しているような印象。危機を煽るような、あるいは、犠牲者家族に関する感傷的な報道が多く、辟易する毎日である。だから、最近はもっぱらラジオをつけている。気象や災害はインターネットで調べたほうが早いし。
昨日は、優秀番組賞をとった毎日放送の作品をラジオ放送していたが、福島の原発作業員へのインタビューで、肉声と本音で、しかし冷静に構成されていて、良い番組だった。
途中から聞いたので、いつの時点での発言かわからないが、それまで宿泊所を提供されていた作業員に対して国や東電がそこからの立ち退きを要求し、自前で宿泊先を探さなければならなくなった状況を訴えていた。宿代を払わなくてはいけなくなったら、とてもではないがやっていけなくなる給料なので、次々にひとが辞めていく。そして、新しく作業員が入ってくるという構造らしい。
今の日本がなんとかやれているのも、こうした「前線」で働いているひとのおかげなのに、まったく何を考えているのやらという感じである。
三年半たっても仮設住宅暮らしをしているひとが山のようにいるのに、首相は外遊続きでその数ばかり誇り、行く先々でお金をばらまいている。彼の演説は言葉に「重み」がなく、英語のスピーチをしたといってはニュースになっているが、見るからに、スピーチのコーチがついたような、ジェスチュア付きのパフォーマンス演説。「女性が輝く社会」という謳い文句も恥ずかしくなるようなセンスである。でも、そのためには女性リーダーを増やすだけではダメで、もっと下からの底上げが必要だと思うが。
日本は本当に政治家が三流で、二世、三世議員、あるいは、スポーツやタレントからの転身(といえば聞こえがいいが、「その先」がない食い詰めるだろうひとたち)組が多く、たしかに、定職のあるひとはそれをなげうってまで選挙というギャンブルをやることはしないだろうし、また、政策よりひたすら握手・挨拶や「気さくさ」が選挙の勝敗を決めるような風土だから、出馬するなんて愚かなことはしないんだろうと思う。
馬鹿らしくてつきあっていられないが、では、そういう腐った世の中で何かが力を持ちうるとしたら何だろう。
それはやっぱり芸術とか文学ではないか、と最近考えるようになった。ただし、「マスメディア」に乗っからないかたちでの。また、単なるファッション的な、流行現象のようなアートというのではなく。
学生時代によく読んだ、グスタフ・ルネ・ホッケの「迷宮としての世界」を再読したく、古書店に注文してある。ホッケを訳した種村季弘さんは知る人は知っているけれども、大衆レベルで知られるような人ではない。特殊な「目利き」であった。
このあいだ、種村さんに関する講演を聞いて、氏が紹介していた「マニエリスム」が、自分が学生だった当時は、「奇想」として興味を持っていたのだけれど、もっと違った意味で、今の世界に大きな意味を持っているのではないかと感じたのだった。
マニエリズムは単純に言えば、周縁的であり、中心が二つの楕円構造だったり、もちろん美術の様式概念にとどまるものではないのだが、その反権威的姿勢、遊びの要素、もろもろにもう一度眼を向けるときが来たような。
だいたい、「知る人ぞ知る」的な種村氏についての講演に、老いも若きも、立ち見が出るほどの盛況であることに驚いた。
私が一番興味深かったのは、多分「迷宮…」のなかの図版だと思うが、デューラーが「夢のビジョン」を描いたものがあって、それは原子雲と似ていること、レオナルドの世界の終わりの渦巻きのスケッチは誰でも知っているものだが、あれも、津波や洪水として見ると、実にプロフェティックである。
昨晩、「赤毛のアン」シリーズの最終巻を読んでいたのだけれど(「アンの娘リラ」)
、アンの末娘リラが15歳になって、村のダンスパーティへデビューする高揚感を描いてある冒頭なのだが、昔はロマンスものみたいに読んでいたのが、今読んでみると、その彼女にとっての人生のハイライトのような晩に、英国がドイツに宣戦布告した、という報がもたらされる。(ダウントンアビーの第一シリーズの終わり方と似ている)
ダンスに行く道すがら、リラが、家に寄寓している中年女性と話をするのだが、この女性は、その田舎の村に遠い果てから波が押し寄せて、すべてさらっていってしまうという夢を見たのだと話をするが、青春まっただ中のリラには単なる「暗い夢」でしかなく、注意を払わない。でも、アンの息子のひとり、詩人的魂を持つウォルターが子どもの時、遊び場だった「虹の谷」で、「いつかハーメルンの笛吹きがやってくる」と予言のようなことを言っていたことをリラは思い出す。
こういう筋はなんとなく覚えていた通りだったが、高校生のときに読んだときは、これらの迫り来る戦争の影や夢やビジョンといったものには、全然関心がなかったので、記憶にとどまっていなかった。
作者のモンゴメリーは神智学徒でもあったと言われ、今改めて「アンブックス」を読むと、その片鱗がうかがえて興味深い。
さりげない描写なのだが、お手伝いのスーザンが台所仕事が終わって、楽しみにしている新聞を読む時間、サラエボというどこだかわからないところで、オーストリアの皇太子夫妻が暗殺されたというニュースを見つけるが、まったくそんなところをすっ飛ばして、グレン村のできごと欄に眼を転じ、「まったく、こんな遠いところで起こっていることが私たちになんの関係があるっていうんでしょうねえ」とぐちぐちいうところなども、今読んでみると、なかなか興味深い。当時も一般のひとはそんなふうだったんだろうし。
種村氏の没後に出された本には、彼の夢の記述があるらしく、それが最近の状況をかなり反映しているという話は、示唆的である。これから読みたいと思っている。
上に書いたりはしたけれど、まるで鋭い笛のような、ヒューヒューする風の音。こんなことはあまりない。