翡翠の蝉

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今、これを書いているテーブルの上に、翡翠の蝉のペンダントがある。これはおともだちからの贈り物だが、とても気に入っていて、つけてないときも、デスクの上などに出してある。

 

つけていてもあまり目立たず、大仰でないけれど、目利きのひとにはわかる優れもの。

 

昼間はミンミン蝉の大合唱だが、夕方になると、どこからともなく、カナカナの静かな声が聞こえてきたりする。

 

カナカナが鳴くと、そろそろ秋も近づいているということだろうか。カナカナの音を聞くとなにか深山幽谷にいる心地がする。

 

自分の送っている生活がどこかおかしいような、でも、おかしなのは世の中のような気がするのだが、しかし、世の中で暮らしていくには、これでいいのかなあという感じがしなくもなかったりする。

 

今日はまったく夢を見なかったか、覚えておらず、そういうことは珍しいが、夢がいろいろ教えてくれることは、貴重ではあるが、それが現実と意識界の奇妙に入り混じったところから伝えられるものであるがゆえに、ある意味、私は周囲に対して、ものすごく警戒的で気を許さなくなってしまったことも否めない。

 

残念なのは、人間に対して暖かい気持ちをあまり持てなくなってしまったことだ。

 

結局、それが自分の今の「行き詰まり」を招来しているわけなので、自分が「引き起こしている」といってもよい。

 

それなら、それらを一切ご破算にしてみようと昨晩、ふと思った。実際に何かをするというより、自分の意識をリセットしてみようということである。

 

夢を見なかったのは、きっとそのせいかもしれない。

 

以前、子供たちが引っこ抜いていって、私がまた植え直した低木に、今朝、白い花が咲いていた。

 

 

夜のお客さん

雨模様のすっきりしない日が続く。

 

ここへ来た最初の年は、周りに樹木が多いせいかと思ったが、玄関口に大きな蛾がとまっていてビックリしたり、階段の踊り場や天井に小さな蛾がとまっていたものだった。

 

次の年にはいろいろな猫たちが入れ替わり立ち代りで、猫が原で狩りをしたりしていて、もちろん蛾もないないわけではなかったが、だんだん少なくなったように思った。

 

昨年はもっと少なくなり、猫も前の年とは入れ替わっていた。ときどきだけ来る、茶トラの猫のように、引き続き来ていたものもいたが。

 

2週間ぐらい前には、ベランダに出してある木のベンチの上に、朝、バッタが来ていた。まるで部屋のなかを覗き込んでいるようだった。ときどき、ゆっくりと移動して、小一時間ぐらいはいただろうか。

 

そんな、奇妙な「お客さん」がここにはたくさんいる。昨晩は、ものすごい蝉の鳴き声が洗面所でしたと思い、玄関ドアを開けたときに蝉が飛び込んでどこかに潜んでいたのかと焦って、音の出るところを探し回ったが、どうも玄関ドアの向こう側で鳴いているようだった。轟音といっていいほどの、大きな音で驚いた。

 

夜のstranger。

 

 

 

 

8月15日

8月に入ってから降水のない日は皆無だという今年。ちょうど半月になるわけだが、

カラリと晴れた日がほとんどない。反対に梅雨の頃は晴れた日が多かったのだが、

まったくどうなっているのだろう。

 

昨日、終戦記念日は雨だった。1945年の天皇の戦争終結放送があったときの、どこまでも青い夏の空というのが誰の回想にも出てくるが、私の知る限りでも、昨日のように朝から雨などという終戦記念日はなく、奇妙な気持ちがした。いつもカラリと空は青く、太陽がじりじりと灼けつくように照らすお天気だったのに。

 

一度だけ、十年前ほどに、8月15日に靖国神社に行ったことがある。そのころはまだ普通のひとはこの日に靖国に行くということがあまり一般的ではなかったので、いったいどういう人たちが参拝にいくのだろうという関心もあった。

 

驚いたのは、家族連れとか、ごく普通のひとたちが多数参拝にきていたことだった。迷彩服の男性と、従軍看護婦の制服を着た女性などというカップルもいるにはいたし、

明らかに右翼団体らしき人々も集団でいたりはしたが。遺族という雰囲気でもないので、ちょっと驚いたことだった。

 

当時は、靖国神社についてはとりたてて否定的な意見は持っておらず、軍用犬や軍馬忠霊塔を見て、「可哀想だなあ」と思っていたぐらいであった。

 

しかし今では、戦没者を英霊として祀りあげることには違和感が大きい。日本軍の戦死者は餓死や戦病死が戦闘での戦没を上回るレベルであること、開戦までの経緯はエネルギー封鎖など窮地打開の意図があったとしても、戦前の日本の狂気、社会全体の洗脳は、大陸への進出や満州国の建国、開拓民を見捨てていち早く撤退した関東軍、特攻作戦など、その非人間性は反論のしようがないからだ。

 

8月は戦争に関する番組ばかりが目白押しだが、どれもこれも精神論だけで乗り切ろうという愚かしさに満ちている。今朝は、「震洋」と呼ばれた、戦争末期につくられた特攻水上艇の船体が一部見つかったというのをやっていたが、結局出動はしなかったこの小型漁船みたいな人間魚雷は、なんとベニヤ板でつくった粗末なもので、いわゆる鋼鉄製の人間魚雷(これも片道切符の異常なことではあるが)はまだ合理性があるが、このベニヤの船が多数、千葉の館山に壕を掘って隠してあったのだそうだ。

 

これらは終戦と同時に皆、証拠隠滅のために破壊されたという。

 

昨日は、第二氷川丸という病院船がやはり終戦3日後に姿を消したが、それは舞鶴港の沖合でやはり爆破されたらしい、船体が見つかったという話をやっていた。もともとは、捕縛したオランダ船で、それを病院船に改造して、赤十字の旗を立て、こっそり武器を運んでいたのだという。戦闘で捕獲した船をこのように使うこと自体国際法では違法なのだという。

 

私も、終戦時、やはり証拠隠滅のためにすべて焼き捨てさせられた海軍兵学校の英語の教科書でこっそり持ち出されたものを、リプリントしたものを、いただきもので持っているが、何もかも「なかったことにして消してしまう」というのが、日本人のよくないところだと思う。

 

幸か不幸か、私自身は、いろんなことを絶対に忘れない。今まで、この性格ゆえに悩みも苦労も多いと思っていたが、昨日BBCの記事を読んでいたら、怒りとか憎しみというマイナスと言われる感情は、精神の健康にとって必ずしもマイナスではないというレポートを読んで、目からウロコが落ちたし、納得もした。

http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40933095

 

巌窟王」ではないが、怒りや憎悪による「復讐」ということは、あながち悪いことではないのではないか。

 

むしろ、そういう感情を抑圧することのほうがよくないという。ただし、恐怖や不安、心配などは、マイナスに働くらしい。ネガティブ感情として、一括しないほうがいいのだろう。

 

昨日は、靖国に首相は私人として玉串を届けさせたとか、国会議員が集団で参拝したとか、また、中国と韓国がこれを批判したとか、あれこれニュースでやっていたが、

議員団の顔を見ても、本当に痛恨の思いで慰霊に行っているひとがどれだけいるだろうか、という気がした。この日に行く、というのが、単なる政治的パフォーマンスに堕しているのである。もし本当に慰霊のためにいくなら、ひとりで静かにひっそりと行けばよい。 靖国はもはや(多分今までも)「みたま」の休らう場所ではないような気がする。

 

それにしても、身元がわからない無名の戦没者(36万7千柱以上)の慰霊の場所である千鳥ヶ淵墓苑が、燦然と巨大な菊の御紋が輝く堂々たる大扉の靖国と比べて、いかにも粗末な建物であるのが嘆かわしい。終戦の日ぐらいしか映されない場所だが、普段に行くと本当に佗しい場所なのである。最初はこれは間違いで、どこかに本物があると思ったぐらいである。

 

千鳥ヶ淵の反対側に建てられた博物館、昭和館が展示のありように揉めて、戦争のころの暮らしの博物館といったなんともつまらない、スカスカの展示になってしまっているが、こんなものを建てるぐらいだったら、千鳥ヶ淵靖国を合体して、宗教色のない国の戦没者墓苑をつくればよいのに、と思うことである。神社や遺族会が黙ってはいないだろうが…。

 

昨日の雨は、英霊に祀り挙げられている人々の、涙ではないだろうか。

 

追悼とか慰霊というのは、本当にいろんな意味で近しい、というひとにしかできないものだと思う。

 

 

 

記憶喪失

このところ、割合涼しい日が続いている。お盆を過ぎると海も波が高くなり、秋の気配があちこちで感じられることだろう。残暑は厳しいとしても。そろそろ鈴虫が鳴き始める…。

 

このブログはおともだち宛に綴っているものだが、おともだちがどうしているかはわからないので、なにを書いたらよいのか、悩ましい。

 

2、3年前にDCのKさんにおともだちの様子を問い合わせて、「わからない」ということでそれっきりになっていたが、6月に突然、最近連絡が来て会いました、といったメールが届いた。

 

体はまあ元気そうだけれど、話の内容に反復が多く、昔のことは覚えているが、いまさっき言ったことを忘れるみたいな、記憶の問題があるみたいです、という内容だった。

 

私とは12月には4時間ぐらい電話で話をしたし、4月にも30分ぐらいは電話で話したことも、ひょっとすると、もう忘れているのかもしれないなあ、と、ふと思った。

 

手紙は残るので、5月末だったか出してみたのだけど、それもどうなったのかはわからない。届かなかったのかもしれないしが、誰からの手紙なのかわからなかったのかもしれない。

 

私が誰かということも、すっかり忘れてしまったのかも…とか思ったり。

 

昔、冗談で、「もし、あなたが記憶喪失になったら、別のひとに”なりすまして”

また、そばに行くから」と、映画「心の旅路」なんかの話をしたものだったが。

 

それが本当になってしまった?

 

お盆休み

そろそろお盆休みも近く、明日11日は山の日という休日で、三連休になるので、そこから続けて休むというひとたちも多いらしい。山の日というのもよくわからない休日である。海の日が最初にできたのだが、それに対応するものということだろうか。

 

休みになる前にと思って午前中に郵便局のATMに行ったのだが、閑散としていた。すでに多くのひとが東京を脱出しているのかもしれない。

 

驚いたのは、郵便局のお盆休みというのがいつからいつまでかなと思い、インターネットで調べたら、まったく通常営業で、お盆の休みというのはとくにない。

 

そういえば近所の商店なども、毎年「いつからいつまで休み」と貼り紙を前もって出していたが、そういうものも見かけない。

 

お盆に帰省するひとや、一斉に休むという習慣もそろそろ風化しつつあるのかもしれない。

 

近所のスーパーでお盆のしつらえに使う飾りなどを売っているのが、唯一お盆が近いことを知らせるものといっていいかも。

 

昨日は今年一番の暑さということだったが、こう破格に暑い日が続くと、さすがに体力が落ちていて、ちょっと出かけて戻ってくると、ぐったりしてしまう。夏は涼しい家にいるのが一番だ。

 

貼り紙といえば、昔見て笑ったものを思い出した。お盆休みのころだったか、焼き鳥屋の入口に「身勝手ですが、◯◯から◯◯までお休みします」という紙が貼ってあった。「勝手ながら…」という文言がアタマにあったけれど、出てこなくてこれになったのだろう。

立秋の台風

今日は立秋。台風は四国、近畿あたりで現在猛威をふるっており、今日の夜からはこちらも大雨になるという。すでに時々妙に暖かい風が吹いている。

 

洗剤を買わなければならないので、隣駅のデパートまで行った。

 

本当は詰め替え用でいいのだが、本体2本分なので重い上に、詰め替えプラスチックバッグの設計が非常に悪くて、ボトルに入れるのに、いつも難渋し、こぼしたりしてしまう。我慢していたが、これぐらいたいしたゴミでもないので、本体を買った。石鹸洗剤なので、近所には売っていないのである。

 

洗剤は地下の食料品売り場の一角なので降りていっのだが、お昼近くということで、買い物客でごった返していた。普通の買い出しもあるが、お昼を買いに来たり、イートインで何か食べるためのようだ。こころ惹かれるものがいろいろあるが、包装材がかさばるゴミになるので、私はめったに買うことがない。

 

 

一階のカフェでサンドイッチとコーヒーで手早くお昼をすませた。いつもは混んでいるのに、あっと言う間に持ってきてくれた。今日は11時だからで、早めに来るのが賢いやりかただな、とひとつ学習した。

 

デパートの出口に向かうと、続々お客さんが入ってきて驚いた。これから台風が来るというから早めに帰らなきゃと思う私が慎重派なのか、皆、ずいぶんのんびりしているなあ、と。

 

 

お墓

台風が近づいて、少し涼しい日。蟬しぐれが終日続いている。歯は当分放っておくことにした。不便ではあるが、2本ぐらいなくても結構やっていけると発見。

 

昨日母から急に、お墓についての電話があった。自分も教会へは行っていないが洗礼を受けているので、後見人組織の共同墓に入る契約を見直したいとのことで驚いた(その墓苑はお寺の経営)。行先を考えてからにしてほしいとして、今のところ、契約がある共同墓が後見組織との関係でベストの選択なのだからと、説得。

 

郷里の菩提寺は、父の葬儀を東京でしたことに立腹、こちらで預かれないとゴネたので、もう一度別の戒名をそこでもらって(要するに金銭問題である)、永代供養料を納めて、その後、連絡を絶っている。

 

墓なんて新たにつくる気はないが、このあたりの墓苑を調べていたら、尾崎豊の墓(正確には記念碑らしい)が、この地にあることを知った。T市は結構広く、そのあたりは行ったことがないが、人造湖畔の散策エリアである。

 

政権の不祥事隠しのように、尾崎の恋人であった女優・斉藤由貴の不倫疑惑でメディアが今騒いでいるが、昔、このことを知ったとき、モルモン教徒として有名な斎藤なので、戒律が厳しいのでは、と不思議に思ったことがある。

 

斉藤由貴は演技が巧いわけでも、歌が巧いわけでもないし、なぜ人気があるのかよくわからない。

 

政治家の不倫事件も最近あれこれ取り沙汰されて、そんなことは私的なことで他人が拘泥することではないと思うのだが(公費を使ったというのなら問題だが)、社会や世間が糾弾することというよりは、それが人間関係に及ぼす影響が問題なのだと思う。

 

要するに、不貞行為というのは、「背信」であることが、周囲の人間(配偶者とか家族とか)を傷つけるために、「罪」なのだと思う。「信頼」を損なう行為だからだ。

もはや血縁でもなんでもないが、妹が昔、まだ子供が小さいときに情事に耽っていたことを知り、驚いた。世の中にはよくあることらしいけれど…。