危険

事態は急速に悪化しており、何が起こるかわからないので、ある危険について敢えて書くことにしました。周囲の状況から、いろいろおかしなことが私の身辺で起こっているからです。

 

はっきり言えば、私の甥の存在です。

 

今日買い物に行ったときに、駅前に付箋が一枚落ちていて、DC 3と書いてありました。おそらくただのメモが落ちていたのでしょうが、こういう場合は、現在のコンテキストにあてはめると、何か示唆があることがあります。

 

というのは、今朝ふと、以前、電話で話したときに、おともだちが、「ここにはパソコンが何台、プリンターが何台…」というように、別に尋ねてもいないのにIT機器の数の話したことを思い出したのです。なんで急に思い出したのだろう、と不思議に思ったのですが…。

 

彼は親族という意味で「ハサミ」、すなわち、おともだちと私を断ち切る役割として夢などに出てきます。象徴世界の前表、また運命の抗いがたい力によって、ある日、おともだちと出会うかもしれません。米系金融関係勤務なのでNYCとの往来はあるのではと思います。絶対にないとはむしろ言えないでしょう。

 

 なぜそこまで心配するかといえば、彼はストレートだったのですが、ある時期からゲイの世界に接触しているような夢を見たこともあります。そこまで行かなくても、同胞の青年と知り合って家に泊める、ぐらいのことはあるかもしれませんから。

 

日本人、米系金融、30歳、仏教系高校出身というプロフィールにご注意ください。 

 

投棄物の引き起こしたいろいろな混乱が私の身辺に波及していて、本当に危ない状況なのです。細かいことは書いても意味がないので省略しますが、私の身辺のバーチャル世界では、今は封鎖されてはいるが本来私の持っている預金なども危ない状況になってきていて…。有象無象が押し寄せてきている、そんな印象です。

 

手紙(状況は…)

最近、こんなことばかり繰り返していますけれど、さきほど書いた記事は綺麗事で、真意を反映していないどころか、反対のものになってしまっていました。

 

自分でもどうしてあんな「強がりを」と思うのですけど、どこかに、おともだちに評価されたいとか、いつものように、読んでもらいたい気持ちが強く、あのようなことを

書いてしまいました。

 

でも実際は、事態は切羽詰まっている状況です。

 

「処分」の話はおともだちが嫌だろうと、避けて書いていなかったのですが、これを書かないと全体の流れがわからなくなるので、敢えて書きます。

 

この二週間ぐらい「処分」がうまくできず、毎回回収しており、それと連動するかのように、シクラメンやラヴェンダーが勢いを失っていく状況が続いています。

 

シクラメンはおともだちの象徴らしく、処分をやめると(つまり家のなかの夾雑物をそのままにしておくと)それは枯れてしまうということのようです。

 

4月にローカル銀行に行ったときに、シクラメンの花がほぼ全部落花してしまったことがありましたね。覚えているでしょうか。その後、葉っぱもだんだん元気がなくなり、処分が滞ったこの二週間ぐらいは黄変が日ごとに増えていきました。

 

普通に考えると奇妙な現象なのですが、実際に連動していることは、銀行の件でわかると思います。水やりとかそういう問題はクリアしているからです。突然落花したわけです。それもいくつも。

 

処分が失敗続きなのは、手順や内容がますます複雑化していることも関係しています。

 

 これまで書かなかったことですが、当地の銀行がすべて使えないだけでなく、バスに乗って隣駅まで支払いにいくことも不可能になってしまいました。それで、5月末はすべての支払い、家賃、光熱費、カードの口座への入金がストップ。

 

支払いが滞れば早晩ライフラインが切られてしまうでしょう。電気や電話がとめられれば、PCも使えなくなってしまいます。

 

一度支払いに出かけたのですが、妨害的な、おかしなことがいろいろ起こって、結局諦めました。その晩の夢では、親族たちがバス停で見張っているのでバスに乗ってはいけないという警告がありました。電車、バス、手段を問わず、結局、金融機関を使うと、親族に絡めとられるということのようです。

 

事態は急速に悪化していると感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空梅雨

今年は空梅雨なのだろうか、こちらは梅雨入りはまだというものの、雨降りの日はほとんどない。

 

その分湿気がないので、衣服のベタつきもないし、外を歩いても陽射しは強いものの、

風は爽やかである。

 

半径200メートルぐらいの圏内のみに文字どおり棲息している私だけれど、その中で有形無形いろんなことが起こって、まさに急坂を登っているかのごとくだが、それでも、その坂を降りるつもりは毛頭ない。

 

現実はおとぎ話のようにきれいごとではすまないが、それでも、毎日のように降ってくる難事をかき分けて進んでいくのは、ある種神話に似ている感じもなくはなくて、自分のことではあるが、興味深くも思っている。

 

しかしそれはあくまで自分の「戦い」であって、このあいだからのように、おともだちに苦境を訴えるのはフェアじゃないな、と思うようになった。

 

以前、ずっと前だが、何かの話で、おともだちが、「それは僕の問題だから」といって、私はその問題(何だったか忘れたが)に関係がないのだ、という、言い方をしたことがあり、それを聞いたときに、はっとしたことを思い出す。

 

それと同じようなことかしら、と。

 

 

 

 

 

 

淡々日常

冷房は入れているけれど、外はからっとしたお天気で、風が爽やか。

 

気温が上がる前にと、8時に家を出て買い物に。駅前のスーパーは8時からやっている。以前は10時始まりと思い込んでいて、ある朝前を通ったらお客の姿が見えるので、中に入って、今日は特別なんですかと尋ねたところ、いつも8時なのだそうだ。

思い込みは怖い。

 

さすがに8時近くだとほとんどお客がおらず、カウンターが暇だとレジ袋に詰めて渡してくれるので有難い。

 

新しいメニューもお惣菜に少し加わったので、本当なら少し違ったものを食べたいのだけど、砂肝と野菜のサラダというのが新顔だけど、私は内臓系は苦手なので、パスするしかない。

 

冬場はタラを揚げたものに中華あんをかけたものとか、鶏肉と牛蒡の炒め煮みたいなものがあって結構美味しかったのだけど、春先に姿を消した。

 

ここのスーパーは小さいけれど、いろんな工夫をしていて、以前よく食べたけれど、

長崎直送の薩摩揚げとか、時々、美味しいものを特殊に仕入れたりして売っている。

ご飯が美味しいことからわかるように、いろんな工夫をしているのだと思う。

 

今日は和風三点盛りという、卯の花、ひじきの煮物、切り干し大根と人参、大豆の煮物を組み合わせたものを食べた。これも定番商品。ただ、こう暑くなってくると、おからはパサパサして食べにくいなあ、と。

 

栄養的にはバランスがとれているので、痩せはしたけれど、結構健康的になったようだ。体が軽いというか。

 

言葉足らずだったと思いつつ書いた先ほどの記事ですが、考えてみると、書いたものがすぐ読まれないと内容が妥当ではないのでは、などと思われては、読むほうも無言の束縛を感じるかもしれません。

 

また、日常雑記的な記事を書いたからといって、とくに無理をして書きたいことも我慢しているばかりのわけでもないのです。誰かに暮らしぶりを聞いてもらっている、それだけでも気持ちが楽になるということがあります。

 

ただ、昨日は久々に「けっこう辛い」という本音を吐いたわけですが、結局、言いたいことというのは、非常に厳しい生活で大変だという愚痴なのです。しかしそれは敢えて書いて、おともだちを不愉快にすべきではないだろう、と思っているということです。

一昨日書いた「まるで真夏」の最後のほうに、内的なリズムと外的リズムが合わなくなって、文章を書くのが難しくなったというようなことを書きました。

 

それがおともだちに誤解を与えかねないかなと思い、補足したいと思います。

 

私がここに書くのは本音、真情なのですが、それでもどの内容だったら、おともだちに読んでもらえるかな、と頭のなかでサーチしながら書いている部分があります。

 

だから最近は、すぐに閲覧されそうではないようなものは、自然と避けるようになってきていました。しかし、それだと、自分のなかで伝えたいことは別にあるとどこかで感じているので、ジレンマになってしまうということが、「外的リズムと内的リズムの食い違い」という言葉の背景にあります。

 

 

昨日のpassed lifeも、こういう話題は嫌かもしれないなあと思いつつ、ダメだったらまた書き直そう、その部分だけ削除しようと、お昼を過ぎてPCを開けたら、意外なことに閲覧は書いて間もなくあったようです。ただ、表示のタイムラグのために閲覧がなかったように見えていただけだったのです。先に一度見たときにその時間のアクセスはなかったのですが…。

 

そのとき、もうこんな風に、書いたり消したり、クローズするのはやめなくては、自分が伝えたいことがあれば、それを熱意を持って書くならば、自信を持って置いておかなければと思いました。もちろん話題は何でもよいわけでなく、読み手の立場、意向を考えながら書く事は大前提ですけど。

 

 ですからあの記事は決して、ここに書くのが行き詰まったとかそういう意味ではありません。むしろ、読んでもらいたい気持ちが先走って、伝えたいことが後回しになっていた、ということを言いたかったのです。

 

 

 

 

passed life

朝、まだ涼しいうちに買い物に行ってきた。品物は少ないながら揃ってはいるし。

 

いつものように、エレベーターを使って遠回りをしながら降りようとすると、遠くに清掃人の姿が。たぶん月初めは外回りだけでなく、棟全体の廊下などを掃除する日なのかもしれない。

 

迂回といっても、ケースバイケース、その時々で柔軟にやっていかないといけないな、と。

 

当然ながら、ここまで人を避ける暮らしに自分が陥るとは思ったことはなかったけれども。

 

土曜日の朝なので、道行く人々もなにかのんびりした感じ。何か約束があるのだろう、お出かけする人々だけが、足早に駅に吸い込まれていく。この駅は3階建で、スーパーは1階にあるので、この2、3ヶ月は階上にさえも上がったことはない。

 

スーパーは店が狭いせいもあるのだろうが、店の前に野菜や果物を並べていて、それがちょっとした活気を醸し出している。が、暑くなると傷みやすいのではないかと少し気になるが。

 

食べられないメロンやオレンジなどを横目に、お惣菜売り場へ直行。時節柄か、去年までよく食べた八朔のゼリー、ちょっと洋酒がきいていて、甘すぎず美味しかったものが

通路に並んでいて、ああ、もうそんな季節なんだな、と。

 

親族の虜囚になるという運命から逃れるためにやっているあれこれだが、買い物に出て、晴れ渡った空の下、行き交う人々を目にすると、彼らだってこころの中には鬱屈やいろんな悩みを抱えているかもしれないだろうけれど、いったい自分はいかなる理由によって、かくのごとき、劫罰のような暮らしを強いられているのだろう…と、ふと思う。

 

旅に出たときに、おともだちは私に「前世ってないのよ」と言っていたけれど、私はあると思う。というか感じる。

 

いわゆる「あなたの前世はこれこれです」というのはインチキ臭いと思うが、私は修道女だったことがあるというのはしばしば言われたことがあるが、それは当たっているような気がする。ただし不幸な亡くなり方をしたようである。

 

なんの前触れもなく事故で亡くなったり、あるいは大きな不幸に見舞われる人々がいるわけで、それから比べれば、近未来の災厄を避ける手段が、厳しいものとはいえ、与えられている自分は、感謝すべきなのかもしれないが…。

 

でも、しつこいようだが、もうちょっと早く、こうしたシナリオに気づかせてほしかったとしきりに思う。ヒーローの役割を負わされた実はスケープゴートの自分というリアルな自己像を。