最近は、私のことを知らないひとがここへいろいろ来るようになって、本来の目的を果たせていなくなっている。知らないひとに読まれるのは、ブログの性質上いたしかたない面もあるが、「ただ読み」は遠慮願いたい。
9月1日
今年の夏は、夏らしい日が本当に少なかった。今もまた台風が接近中なので、小笠原あたりでは記録的な大雨のようである。今日は関東大震災、防災の日。
一昨日ぐらいから、一気に気温が下がって涼しくなった。今日も、朝はひんやりした空気を肌で感じることができ、「ああ、これが9月だ」と思った。
買い出しに行くと、食用の菊の花を売っていた。夏も終わり、菊の季節が来るのだなあと、しみじみと感じた。
買い物に行くのに「往きは」静かだったのに、「帰り」は突然暴風のような強い風が吹いてきて、ニセアカシアの巨樹についている、房状の花を一気に散らした。文字どおり、往きはよいよい、帰りはこわい。
一旦落ち着いたものの、台風の予兆のように、樹木がざわざわいっている。風で倒れないように、ラヴェンダーやゼラニウムの鉢をベランダの隅へ移動させておく。
学校が始まり、周囲から子供達の姿が消えて、静かになった。子供達が遊んでいる通路のような広場があったのだが、2、3日前から駐車場になってしまったらしく、私としては通るときに野球のボールなどが飛んでこなくなるので、ありがたいことだが。
この週末は台風の雨風であまり外出もままならないかもしれない。被害が少ないとよいのだが。
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昼も夜も鳴り止まない耳の虫。もう四ヶ月に。
夢とメロン
今日はまた暑さがぶり返した。ぎっくり腰で歩くのに難儀するのと夏の疲れがたまったのとで、夜早くに、深い眠りに落ちてしまうのだが、今朝は不思議と夢見が少なかった。普段は数本立てなのである。
今日のは、円弧の一部、みたいなよくわからない夢だった。
6時ごろ起きてPCをあけたら、Jアラートが入っていて、飛翔体の発射云々という。
その後、テレビでは落下点付近の、道東から中継をしていた。もちろん地上では、ただ
漁業組合の倉庫のあたりをクルマが走っているような、それだけの風景である。最初は江差をうつしていて、のちに広尾町あたりに変わった。
ふと、ずっと昔、SNSでおともだちが、似たようなシチュエイションの夢をかいていたことを思い出した。
自分の郷里のあたりの海域に軍用ヘリか軍用飛行機が不時着して、行方不明か何かで、
自分の父親の仕事関係の縁故?や知見があるために、五角形から派遣されて当該地に赴く、というような内容だった。2008年ごろの夢だったと思う。
おともだちの夢のいくつかは覚えていて、最近になって「あれはこういうことだったのか」と思い当たったことがいくつかある。
飛翔体騒ぎは、テレビで騒がれているほどではないと思う。PMはめったに公邸に宿泊しないのに昨日はいたから、事前に何か知っていたのだと思うだけだ。
私の主たる関心は、駅前のスーパーで見つけたらぶちゃんメロンという蘭越産のメロンを買おうか買うまいか迷ったことであった。
一ヶ月ほど前、半分にカットしたものを買ったのだが、とても美味しかったので、もう一度食べたかったのだが、その後売っておらず、今日は店頭に並んでいたが、丸ごとのものばかり。熟れ具合も見られるし、量的な問題もあって、カットしたものが欲しかったのだが…。
処暑も過ぎて秋風立つ
暑さも峠を越えたのだろうか、朝晩が結構涼しくなってきた。昨晩などは、月明かりの森閑としたなかで、虫の声があちこちから聞こえてきていた。
とはいえ、昼間は蝉の大合唱である。それだけでは足らないように、時々蝉のお客さんは家のドアの前までやってきて、じっとしていて、次に見たときはもういなくなっていたりする。なんとなくだが、蝉はメッセージを持ってくるようでもある。
家のテーブルと椅子の高さがどうも合わないこともあって、無理がたたったのか、昨日以来、ぎっくり腰のような感じで体を曲げることができず、御殿女中みたいに板のようになって、そろそろ歩いている。ダイニングテーブルの天板の周りに袴のような5センチぐらいのボーダーがついていることが、何かと邪魔で姿勢を悪くしているように思う。
処分しようかと思うが、そうすると、また新しいものを買わなければならないし、費用もかかる上に、家具など大きな商品は最近は店頭になく、カタログを見て買うことになるので、今のような失敗につながるという問題もある。
昔は、などというと年寄りくさいが、どこの町にも家具屋さんがあって、それなりに在庫商品を置いていて、目で見てたしかめることができたのだった。つい10年ぐらい前まではまだそんなお店があったのだが、IKEAとか無印などの量販店におされて、なくなってしまったのだろう。
そういえば、荒物屋というのもなくなって久しいので、ずいぶん以前だが、「じょうご」を買うのに、一苦労したことがある。たまたま見つけた荒物屋にあったのだが、
そこは半分ぐらいはクワとか鎌とか農業用具も扱う、田舎風の店だった。
じょうろも壊れてしまったので、代わりが欲しいのだが、それもネットで買うぐらいしかなく、今は500ミリのペットボトルで代用している。
スダレなども、スーパーには売っているが、だいたい中国製で、安いのはよいが、軽すぎたり、壊れやすかったりで、選択の余地があまりない。
どうでもいいものは街にあふれているが、いざ、生活雑貨を買おうとすると、あれこれ見繕う余地もないし、それ以前に店自体がなかったりするのはとても残念なことだ。
五十鈴川
二見浦
今日で猛暑日も最後ということだが、外にいるだけで汗がにじんでくるような、大変な暑さである。
昨日は、猫が原一帯が草刈りの日だった。機械を使うので午前中にはあらかた草原は土が見えるようになり、アカツメクサも雑草も何もかもなくなった。
午後からは、低木の剪定が始まり、これはさすがに判断もあるので人力で、すっかり見通しがよくなった。
草刈りの日程を聞いていたわけではないが、私のPCも数ヶ月前に、容量がいっぱいなので、クラウドのメールが使えなくなります、という案内がきてそのままになっていたので、ダイレクトメールのようなものや、不要な書類を削除するとよいかなと思い、午後じゅうずっと、消去作業をしていた。
けれども、かなり捨てたはずだが、空容量ゼロという数字は変わらず、仕方がないので、そのままにしておくことにした。
写真はクラウドにリンクさせてないので減らす意味がないが、メールに添付されているものなどが、ひょっとして容量をくっているのかもしれない、と思った。
私は特別写真の腕がいいというわけではないが、おともだちを写したものが別のPCから移動させたフォルダに入っていて、ニュアンスがあって、とてもいい写真だと思った。以前の、「伏し目がちの天使」もそうだったけど、写真の技術というより、被写体とのあいだの感情みたいなものが、反映するのだろう。
そういえば、二人で撮ったものは一枚だけ伊勢のものがあるが、自分の写真うつりがよくないので、結局おともだちには送っていない。でも、見目はよくないが、ハッピーな感じはとても伝わってくる。
おともだちは私にとっては「男」であって、gayっぽいと思ったことは全くないのだが、不思議なことに、意図してとっていない、ある公園でのスナップには、とてもその雰囲気が濃厚だったりする。
ファイルを整理していると、捨てられるものとためらうものがあり、「今の自分」がよくわかる。もとの仕事関係のものはただ置きっぱなしになっていただけなのだが、改めて消去してすっきりした。
翡翠の蝉
今、これを書いているテーブルの上に、翡翠の蝉のペンダントがある。これはおともだちからの贈り物だが、とても気に入っていて、つけてないときも、デスクの上などに出してある。
つけていてもあまり目立たず、大仰でないけれど、目利きのひとにはわかる優れもの。
昼間はミンミン蝉の大合唱だが、夕方になると、どこからともなく、カナカナの静かな声が聞こえてきたりする。
カナカナが鳴くと、そろそろ秋も近づいているということだろうか。カナカナの音を聞くとなにか深山幽谷にいる心地がする。
自分の送っている生活がどこかおかしいような、でも、おかしなのは世の中のような気がするのだが、しかし、世の中で暮らしていくには、これでいいのかなあという感じがしなくもなかったりする。
今日はまったく夢を見なかったか、覚えておらず、そういうことは珍しいが、夢がいろいろ教えてくれることは、貴重ではあるが、それが現実と意識界の奇妙に入り混じったところから伝えられるものであるがゆえに、ある意味、私は周囲に対して、ものすごく警戒的で気を許さなくなってしまったことも否めない。
残念なのは、人間に対して暖かい気持ちをあまり持てなくなってしまったことだ。
結局、それが自分の今の「行き詰まり」を招来しているわけなので、自分が「引き起こしている」といってもよい。
それなら、それらを一切ご破算にしてみようと昨晩、ふと思った。実際に何かをするというより、自分の意識をリセットしてみようということである。
夢を見なかったのは、きっとそのせいかもしれない。
以前、子供たちが引っこ抜いていって、私がまた植え直した低木に、今朝、白い花が咲いていた。