立秋の台風

今日は立秋。台風は四国、近畿あたりで現在猛威をふるっており、今日の夜からはこちらも大雨になるという。すでに時々妙に暖かい風が吹いている。

 

洗剤を買わなければならないので、隣駅のデパートまで行った。

 

本当は詰め替え用でいいのだが、本体2本分なので重い上に、詰め替えプラスチックバッグの設計が非常に悪くて、ボトルに入れるのに、いつも難渋し、こぼしたりしてしまう。我慢していたが、これぐらいたいしたゴミでもないので、本体を買った。石鹸洗剤なので、近所には売っていないのである。

 

洗剤は地下の食料品売り場の一角なので降りていっのだが、お昼近くということで、買い物客でごった返していた。普通の買い出しもあるが、お昼を買いに来たり、イートインで何か食べるためのようだ。こころ惹かれるものがいろいろあるが、包装材がかさばるゴミになるので、私はめったに買うことがない。

 

 

一階のカフェでサンドイッチとコーヒーで手早くお昼をすませた。いつもは混んでいるのに、あっと言う間に持ってきてくれた。今日は11時だからで、早めに来るのが賢いやりかただな、とひとつ学習した。

 

デパートの出口に向かうと、続々お客さんが入ってきて驚いた。これから台風が来るというから早めに帰らなきゃと思う私が慎重派なのか、皆、ずいぶんのんびりしているなあ、と。

 

 

お墓

台風が近づいて、少し涼しい日。蟬しぐれが終日続いている。歯は当分放っておくことにした。不便ではあるが、2本ぐらいなくても結構やっていけると発見。

 

昨日母から急に、お墓についての電話があった。自分も教会へは行っていないが洗礼を受けているので、後見人組織の共同墓に入る契約を見直したいとのことで驚いた(その墓苑はお寺の経営)。行先を考えてからにしてほしいとして、今のところ、契約がある共同墓が後見組織との関係でベストの選択なのだからと、説得。

 

郷里の菩提寺は、父の葬儀を東京でしたことに立腹、こちらで預かれないとゴネたので、もう一度別の戒名をそこでもらって(要するに金銭問題である)、永代供養料を納めて、その後、連絡を絶っている。

 

墓なんて新たにつくる気はないが、このあたりの墓苑を調べていたら、尾崎豊の墓(正確には記念碑らしい)が、この地にあることを知った。T市は結構広く、そのあたりは行ったことがないが、人造湖畔の散策エリアである。

 

政権の不祥事隠しのように、尾崎の恋人であった女優・斉藤由貴の不倫疑惑でメディアが今騒いでいるが、昔、このことを知ったとき、モルモン教徒として有名な斎藤なので、戒律が厳しいのでは、と不思議に思ったことがある。

 

斉藤由貴は演技が巧いわけでも、歌が巧いわけでもないし、なぜ人気があるのかよくわからない。

 

政治家の不倫事件も最近あれこれ取り沙汰されて、そんなことは私的なことで他人が拘泥することではないと思うのだが(公費を使ったというのなら問題だが)、社会や世間が糾弾することというよりは、それが人間関係に及ぼす影響が問題なのだと思う。

 

要するに、不貞行為というのは、「背信」であることが、周囲の人間(配偶者とか家族とか)を傷つけるために、「罪」なのだと思う。「信頼」を損なう行為だからだ。

もはや血縁でもなんでもないが、妹が昔、まだ子供が小さいときに情事に耽っていたことを知り、驚いた。世の中にはよくあることらしいけれど…。

 

 

 

 

揺れる

前にいた土地へ歯の治療にいくことは、過去へ巻き戻されることでもあり、決心して

今日の予約はキャンセルした。考えても、考えても答えが出ず、ここで治療することも

差し障りが多そうな気がする。そういう夢を見たりした。

 

このままでいいわけではないのだが…。

 

昨晩はずっと眠れず、内心、こんなことはどちらでもよいではないかと思うものの、決断がつきにくかった。

 

やっぱりある種のノイローゼなのかもしれない。決断できないのはうつ病の症状だが、

私の場合は、警告夢を見て身動きがとれなくなっているので、オカルトノイローゼということか。

 

深夜と朝、地震があった。

 

眠れなかったので、昼寝をしたら、蜘蛛の巣にからめとられる夢を見た。 

 

わたしは最近、ときどき、この世から消えることを考えるようになった。それがすごく現実に近いような感じがする。夢にも過去何度かあった。

 

このブログでは理性によってかろうじて抑制して書いているけれど、それは実像ではない。

 

なにか分からない理由で、突然連絡が途絶えるおともだち。これで何度目だろうか。理由が分からないので苦しむ。

 

その繰り返しが、だんだん澱のように溜まっていった。

 

「消える」世界は、手を伸ばせば届く、近くにある。

 

 

 

 

虚妄

時々、妙に涼しい日だったかと思うと、翌日はまた炎熱酷暑の繰り返し。

 

昨日は本当に数年ぶりで、以前住んでいた沿線のTの街へ。一ヶ月前にグラグラしていた歯がついに根元だけを残して大きく欠けてしまって、2週間ぐらいたって、食べるのにも大変難儀するため体力が落ちて、もう限界…と思って、以前かかっていた歯医者さんへ行ったのだった。

 

先生は老齢でもう引退しているかと思ったが、幸い、旧い患者さんだけに限って、診療しているとのことで、みてもらえることになった。

 

家からは1時間半ぐらいかかるので、通うのがかなり大変だが、歯科恐怖症の私が新しい歯医者にかかるのは、ちょっと難しいという事情もある。

 

しかし、その沿線は親戚やら旧同僚やら、知り合いが多いこともあり、彼らと顔をあわせたくない自分がおり、ずっと二の足を踏んで、三年も歯医者へ行かない事態になり、

案の定、虫歯があちこちでひどくなってしまったわけである。

 

歯の治療は結構時間や回数がかかるので、それを始めると、「ここで根をおろす」といったことになることを、どこかで警戒していたこともあるかもしれない。

 

それは、私のなかでまだ最終的に結論が出ていない首都圏の放射能問題もあるし、おともだちがひょっとして北国へ帰るのかもしれないという、去就の定がたさとも関係していた。

 

歯がこんなに短期間にいくつも傷んでしまったのは、ストロンチウムのせいかもしれない…などと考えていたりもしたが、それなら首都圏にいるひとは皆ボロボロの歯にならなくてはならないはずで、やはり自分の思考が偏っていたのだなあ、と。

 

歯医者へ行った結論としていえるのは、スケーリングとか定期健診を欠いていたために、口内環境が著しく悪くなったことが原因だろうということである。

 

それと、ある種のオカルト的思考というか、人や物、場所とか、組織とかと関わると、

「因縁」のようなものが生まれ、自分の人生航路を阻害することになるのではないかという「怖れ」が抜きがたく潜んでいたこともある。

 

しかし、かけてしまった歯やら食べづらい口内環境をつらつら見るに、そういった、

「起こるかもしれない」ことを怖れて、自分の健康さえも損なっていた愚かさに気づいたのであった。要するに、「可能性」はあるのかもしれないが、自分の「意志」さえはっきりしていれば、嫌なこと、状況にはノーで拒絶すればいいのである。

 

悪いところが多いが、なんとか8回ぐらいで済みそうである。9月には終了するだろう。

 

ひさかたぶりに行ったTはおしゃれな街として人気があるが、テレビドラマを見ているような、非現実感が浮遊していた。街ゆくひとや、カフェに集うひとも、草深い、田舎めいたこのあたりとはまったく違って、洗練されているが、しかし、それが何だろうという気がした。

 

PCを展げたテラス席の青年や、外国人カップルと談笑する若いマダムたちは、自分に酔っている、そんなふうに見えた。

 

虚妄…という言葉をふと思った。

 

私は、オリンピックなんて頓挫すればよいと毎日願っているのであった。

 

 

 

 

 

さるすべり

昨日から雨模様が続き、降ったり止んだり、時々大雨になったり。まるで梅雨に逆戻りしたかのよう。

 

昨日は久々に母とお昼を食べて、去る4月に伯母が亡くなったことを告げた。大往生だったこともあり、案の定、あっさりした反応であった。

 

久々に不愉快な親戚の話などをしたためか、帰ってから尋常ではない疲れに襲われて、

8時ごろから寝てしまった

 

ごく稀にだが、白昼に見える、危険を知らせるビジョンの話をした。私は誰が何を考えているかがだいたいわかるんですよ、という、念押しでもある。

 

今朝も果てしなくたくさんの夢を見た。人は、自分が忘れているようでも、たくさんの余分な荷物を持っているのかもしれない。

 

しかし、あれもこれも捨てていった果てに、いったい何が残るのだろうか。

 

たいていのひとに、牡蠣やフジツボのようなものがまわりにびっしりついているのだろうと思う。

 

今朝、ゴミ置場に行く道すがら、ピンクの花がたくさん落ちているのに気づいた。見上げると、樹上高くに、さるすべりの花が少し残っていた。昨日の大雨で落花したのだろう。

 

おともだちに最後に会った日、御茶ノ水の聖橋口(その後閉鎖されたし、駅全体が現在大規模工事中)までの坂道にさるすべりの木が2本ぐらいあって、おともだちが、さるすべりの由来とか、そのベリーの実を水からひきあげる収穫の仕方みたいな話をしてくれたことを思い出す。

  

さるすべりのピンク色は微妙に青みがかった色で、好ましい。夏を感じさせるので、

私は大好きだ。白いのも、微妙にニュアンスのある白という感じだ。

 

 

蛍光灯

梅雨があけて、さらに一層暑い日が続いている。

 

リビングの蛍光灯はここへきたときから備え付けのものだったのだが、昨晩、突然チカチカして蛍光管が切れた。

 

今朝、急いでスペアを買いにいって、大きなものなので自力でつけられるか不安だったが、やってみたら、大きなカバーが案外はずしやすかったので、助かった。

 

 

 さて、トランプ大統領が安倍首相夫人が英語が話せないと言ったニュースが話題になっていて、アメリカでは過去の夫人のスピーチの動画を引いて、話せないのではなく、

敢えて話さなかったのだ、という解釈をしているリベラル派のひとたちがいるというので、またさらに日本であれこれ言われている。

 

多分、トランプ大統領は最初にフロリダで会ったときに彼女が泥酔したので嫌いなのだという程度のことなのだろうと、私は思っているのだが。

 

それはともかくとして、どうして英語が話せないとしたら、そのことをいちいちあげつらわれなくてはならないのだろう。通訳だって後ろに控えていたわけであるし。

 

たしかに英語は現在たまたま「世界語」の地位にはあるけれど、アメリカ人の英語(米語)覇権主義みたいなものは、私は本当に嫌いである。

 

不思議なことに旧宗主国である英国は植民地をたくさん持っていたためか、それほど鼻につく、「英語ができないやつはだめだ」式の意識が薄いように思う。

 

日本の某女性テレビキャスターが高校時代にアメリカに留学したときに、言われた言葉をそのまま使って「あの子は英語が話せない」と題した本をずっと昔に書いていたが、

アメリカ人はじつに簡単に英語を話せない人を馬鹿にしたり、あげつらったりするところがある。

 

私もこの種の「いじわる」というか「ハラスメント」は米国人から受けたことはあるが、英国人からはないので、英米の対比は、少ないながらも経験値からいえることでもある。

 

アメリカ人がour countryというときは、どんなつまらない人間であっても、”世界に冠たる”という意識が透けてみえるので、それもいい感じはしない。

 

だいたい、ある言語ができる、ということはそんなに凄いことなのか。上達はほぼ学習時間と比例関係があるので、誰でも時間さえかければできることなのである。言語は重要だが、所詮ツールでしかないというものだ。