台風が接近している大雨の夜。
公園の樹木が水煙で緑色のもやのよう。水銀灯の光を反射している。
ベランダに出てみたら、排水溝の水音が轟音のよう。ときどき雷鳴が光る。
台風が接近している大雨の夜。
公園の樹木が水煙で緑色のもやのよう。水銀灯の光を反射している。
ベランダに出てみたら、排水溝の水音が轟音のよう。ときどき雷鳴が光る。
昨晩からずっと雨模様。久しぶりに梅雨らしい日。といっても、大雨ではなくしとしと雨である。九州地方はところによって大変な雨だとか。
歯がグラグラしてきて、とれてしまいそうなのだけど、適当な歯医者がない。そのままでいると、全身崩壊感覚がする。
いろんなことが行き詰まっていて。
今年の梅雨は雨が少ない。しっかり傘をささなくてはならない日があまりない感じだ。
朝から少し本の整理をして、明日引き取りにくる宅本便のための用意をした。最近は、
本を読むとすぐ何かしらの警告的な夢を見たりして、少々気味が悪く、途中で読むのをやめるといった中途半端なことが多く、読まないまま積まれていたものもいくつかあったのだった。
私の夢には「なるほど、そうだな」という示唆的なものもあるが、やはり、こころのなかの怖れから来ているものがかなりあるように思う。
昨日、そういったものに振り回されると現実の生活がおかしくなるので、できるだけ、合理的判断に従うようにしようと決意したのだった。
また、他人の発言などに過剰な意味を探そうとしたりする強迫的思考のくせといったものも、できるだけ「巻き戻す」ようにつとめている。それをしないと、あらゆるものが自分に関係する「何か」になってきてしまう。
どうも、「怖れ」みたいな刷り込みが、自分の脳内で勝手なストーリーをつくり、どんどん増殖し、さらに、そこに最近読んだ本の影響などがイメージとして入り込んで、
いわば混線状態にあるようだ。
そうして、ヒトの意識は周りのひとにもたとえ物理的な接触がなくても影響を及ぼしていくようなので、できるだけ健全な思考を保てるようにチェックしなければ、と思っている。
一度に巻き戻しをすると、また揺り戻しが反動であるかもしれないので、少しずつ少しずつ軟着陸するようにしようと思っている。
今日は今朝から雨。今はあがっているけれど、降ったりやんだりのお天気のようだ。
西日本では大雨らしい。本格的な梅雨の到来。
先週の金曜日のお昼ぐらいにおともだちに手紙を投函した。もう着いているはずだと思うが、手元に届いていないのかもしれないなあと思う。
空の色のような白と水色のグラデーション模様だったから、空に紛れてしまったのか。
あるいは見つけたひとに捨てられてしまったのかもしれない。
昨日は西日本から東日本にかけて、豪雨が続いた。首都圏も昼間の数時間は結構な雨降り。夏至だったのだが、豪雨のニュースの陰に夏至の華やかな季節感は隠れてしまったようだった。
昨日は架線トラブル(雨のせいではない)で、東海道・山陽新幹線が止まって、乗客たちは列車で夜を過ごしたということで、大騒ぎになっていたが、新幹線といえども、トラブルは発生するだろうから、まずは想定内ではないだろうか。
あまり便利なことに慣れすぎていると、例外的なことが起こったときに対応するのが難しくなったり、ストレスを過剰に感じたりすることになってしまう。
東日本大震災で得た教訓のひとつは、いつでもなんでもお店にいけば手に入るというわけではない事態が出来しうるということで、それ以来、外出するときにはちょっとしたエナジーバーと水などを必ず携行していたのだが、それもだんだんゆるくなっていってしまったので反省。
というより、ここ2、3ヶ月というもの、都心に出掛けていないので、そこまで重装備する必要がないのであった。もし万が一電車トラブル等があっても、歩いて帰宅できる範囲ぐらいが、最近の行動半径である。
以前は銀座などに行くこともあったが、最近の銀座は目抜き通りはほとんど海外のブランドショップに埋め尽くされており、見知らぬアジアの街、香港かどこかのようでガッカリである。客もたいして入っていないように見えるが、利益はあがっているのか謎である。
テロなどの危険があるから、繁華街に行かないとかいうわけではなく、繁華なところにもはや自分にとって魅力のあるものがあまりないという理由が大きい。
美術館も映画館も行かなくなって久しい。なにかこういったものは文化といわれているが、皮相な気がするようになったから。所詮、その鑑賞の具合は消費活動のようなもので、ちょっとしたスノバリーをくすぐるしかけに過ぎないといったような感じがある。
今日明日と梅雨の晴れ間だとかで、気温がぐんぐんあがって真夏のような日。この家は冬はかなり寒いのだが、夏向きらしく、家にいると割合涼しい。周囲に樹木が多いためもある。
ちょっと買い物があったので、隣駅のデパートまで出かけた。
昔風にいうとサインペンが欲しかったのだが、油性、耐水性とかいろいろあり、ゲル状ボールペンというのもありますといわれたが、ボールペンではダメだと思っていたのに、ゲル状ボールペンというのが、これまで使っていたものに近かったのだった。
売り場の女性が親切で、私の要望をきいてくれたり、商品の性質を説明してくれたりして、とても助かった。150円ぐらいのもので、ここまで丁寧に対応してくれて、コスト的にはどうなのだろうとかと考えてしまったが。スーパーなどだと、これほど親切ではないはず。
手の甲の日焼けをふせぐための、指先があいている手袋が欲しかったのだが、これといったものがなくて今回は諦めた。ネイヴィか白のレースのものが欲しかったのだが、長さが適当なものがなかった。
以前美術館のショップで買ったプリーツ状のシルクのお洒落なものを持っているのだが、私が行ったときは朱赤と黄土色といった妙な色のコンビネーションのものだけが残っており、手を入れた感じはまことによいので買ったのだが、どうも赤というのは手先だけが目立って、落ち着かない。
最近は、自転車などに乗ったりする人、腕を焼きたくない人用の肘より上の長さの手袋のほうが品数が多いのだが、こんな暑苦しいものをするのだったら、ゆったりした長袖のブラウスとかを着たほうがよっぽどいいと思う。そんなロングの手袋は遠目にみると、まるで夜会服用みたいで、おかしい。だいたい、これをはめるひとは、自転車乗りのおばさんであることを考えると…。
今は、日焼け防止とか防寒用としてしか普通は手袋をしないけれど、昔の映画などを見ると、正装だとだいたい手袋をしている。そういうドレスコードがなくなったのが、だいたい70年代からのようだ。
以前は防寒用としてはニットの手袋をしていたけれど、皮手袋をするようになったら、皮膚にぴったりする快感があって、また、実際手を守るのにも役立つし、手すりなどでもすべらないしで、愛用するようになった。
皮手袋に目覚めたのは、以前書いたフランコ時代のスペインのドラマで、ヒロインがいつも素敵な手袋をしていて、目にとまったのだった。
フランコ将軍は今では大変な悪者みたいに思われているけれど、以前グレース・ケリーのインタビューを見ていたら、「初めてフランコ将軍に会ったときはとても緊張しました」と言っていたので、意外に思ったものだった。
夏に皮手袋ではさすがに「変な人」みたいに見えるので、それはしないつもりだけれど。
この週末は暑いそうなので、家にこもっている。あちこちで熱中症のニュースがあるが、こんな時期に運動会をするほうもどうかしていると思ったり。午後からは天気が崩れがちで、昨日は午後、雷や急な雨があったりした。
戸棚を整理していたら、去年の夏調子が悪く、歯が腫れたりしたときに買ったおかゆのレトルトがでてきて、ひとつは賞味期限が8月、ひとつはもう先月で切れているものだったが、1ヶ月ぐらいだったら大丈夫だろうと、お昼に食べてみた。
鮭のほぐしたものが入ったコシヒカリのおかゆで、これが結構おいしかった。味の素からでているものだが、今度また買ってこようかしら、とか。鮭茶漬けというのはよくあるけれど、おかゆというのはちょっと珍しいのでは。鮭はご飯ものによく合うのだと思う。鮭のムニエルやスモークサーモンなんかより、だんぜん塩鮭とご飯。
戸棚には、最近、ゴキブリ駆逐用に薄荷の忌避剤をセットしたので、開けるとプーンと薄荷のよい香りがする。
疲れたのでお昼寝をしようと思い、横になったが、なんだか眠れず、結局また起きてしまった。
以前、おともだちの家に二度目に行ったときに、私が二階でお昼寝をしていたら、おともだちが、「静御前、静御前」などといって、起こしにきたことがあったのを、懐かしく思い出した。
ふと思い出すのは、おともだちの「剽軽さ」だったりする。わたしの母の真似をして、「M子や、その首飾りはどうしたの???誰にもらったの???」などと、赤ずきんちゃんのおばあさんよろしくの口真似、声色だったりして、とてもおかしかった。
おともだちは、K翁によってだっただろうか、若いころからメランコリー体質みたいに言われてたりもしているが、意外に「おもしろい」ひとなのだ。
メランコリックであり、且つ、ユーモアもある。会っている時間こそ短いけれど、昔から知っていたせいか、おともだちのそんな多面性を私はある意味誰よりもよく知っているようにも思われる。
不思議なひとなのだ。