郷愁

今日は今年初めて、ダウンコートを着なかった日。暖かくはなったが薄着だとまだ肌寒い。垣根には名残の山茶花が元気に咲いている。

 

ずいぶん昔、病院の待合室で上品なおじいさんに話しかけられた。そのひとは90歳近くだったか、この歳になると、友人も皆亡くなってしまい、寂しい限りという話を、問わずがたりに話されたことがある。当時40台だった私は、相槌はうったものの、ピンとは来ない話だった。

 

最近、昔のことをふと思い出す。もう亡くなったひとばかりだが、草津翁やセラフィム君のことだったりする。しかし、よく考えてみると、懐かしいのは彼ら個々人というより、その「時代の雰囲気」であるようだ。

 

今の駿河台の外国人はロシア系といっても、ソ連時代に生まれたり育ったひとたちであり、70年代のように、まだ亡命露人あるいはその家系の人々が少しはいた時代と異なっている。その違いは実は大きい。いうに言われぬ、「空気感」のようなものが違っている。いまは失われた「ひとつの時代」。

 

あるいは、「時間の流れ」のありようというか。

 

かつて、一度だけ、今の府主教館の後部にある、露西亜人倶楽部で、お茶をご馳走になったことがある。セラフィム君たちと行ったような記憶だが、倶楽部のおばあちゃんが紅茶を入れてくれた。天井が高く、家具とかは覚えていないが、その変哲のない白い紅茶茶碗とソーサーは今でも目に浮かぶ。

 

そこに流れていたのは、帝政期と「地つづき」のある種の「時間」だったのかもしれない。

 

ぺちゃくちゃと小鳥のさえずりのようなバブシュカのたわいのないお喋り、紅茶の香り、それに礼儀正しく耳を傾ける紳士たち、といった、とりたててどうということのない一つの思い出だが、そういった時間は今は求めるべくもない。「時」と「ところ」と「人」、これらすべてが揃わないと。永遠に戻っては来ない時間。

 

あの倶楽部の部屋は今は図書室になっているようで、ドアがオープンになっているときに、ぎっしりと並んだ書棚が見えたような気がする。

 

紅茶を入れてくれたバブシュカもとうに鬼籍にはいっていることだろうし、その日そこにいたひとで生き残っているのは、私ぐらいのものだろうか…。

 

帝政時代がすべてよかったというつもりはないが、ある「文化」がそこで途絶えてしまったのだろう。でも、帝政の残照のかけらのかけらぐらいの、この小さな思い出を持っているだけで、私は幸運かもしれない。本を読んでも、話を聞いても、体験しないとわからない、「時空」というのがある。

 

「なんか違う」と思うのは、「かつて」を知っているからこそ。

 

翁たちともう一度お茶を飲みながら、たわいないことをお喋りしたいと思う。幽霊たちとのお茶会になってしまうだろうけど。

 

 

 

真冬に逆戻り

朝から真冬のような寒さ。風も強い。あさっては彼岸の入りで、そのあたりから、ようやく暖かくなるらしい。文字どおり、暑さ寒さも彼岸まで、の言葉どおりに。

 

昨日は銀座のクリニックへ。ずっとお腹の調子がおかしく、たまたま以前処方してもらって残っていたミヤBMというミヤリ酸(乳酸菌)の錠剤で結構改善したので、それを

3ヶ月分出してもらった。涙液状の目薬なども。本当は眼科へ行かなければならないのだが、とりあえず処方薬のほうが安価なので…。

 

今年初めての銀座だが、行くたびにガッカリしてしまう。目抜き通りは皆、海外ブランドのショップになってしまっているからだ。表通りだけではない。並木通りのような、いわば裏通りにも、結構ブランドショップがある。銀座らしい小さなお店はいまやほとんどないにひとしい。昔阪急デパートがあったところに、今は東急プラザがあるが、

ここもブランドだらけ。これでは世界中どこへ行っても同じでつまらない。

 

裏通りに「越後屋」という呉服屋があって、反物などが飾ってあったが、よく時代劇などで「越後屋、おぬしもワルよのう」というセリフがあったりするので、思わず笑ってしまった。

 

12日から大相撲春場所が始まった。今日は夕方、ご飯が炊けるのを待ちながら、相撲中継を見つつワインを飲んでいた。場所が終わるのが26日。24日が東京の桜の開花だというから、その頃には桜もかなり咲いているだろう。

 

春はすぐそこまで近づいている。

 

パニヒダと本

春らしい陽気になった。風はまだ寒いものの。地面に蓄熱された暖かさを感じる今日このごろ。

 

昨日は、東日本大震災の犠牲者のためのパニヒダがあるので、駿河台へ行った。地震発生の14時46分きっかりに、鐘が鳴って、奉事がはじまった。

 

午後の時間は聖堂拝観者がロープを張られた啓蒙者スペースにいて、さらに土曜日ということもあって、鈴なり状態だった。

 

残念なことに、信徒参祷者は聖職者以外は数人で、聖歌隊もいない、後ろで参観者がギッシリという妙な状態だった。人数の多寡ではないというものの、会堂がギッシリみたいに予想していた私は驚いた。終了してから、隣の初老の女性に「いつもこれぐらいなのですか?」と尋ねると、「昨年から始まったんですよ。主教さんがやろうとしないから、私が文句を言いにいきました。東北では主教司式で参列者も多いというのに…」と。たしかにこちらは司式は主教ではなく、よくアトスに行っているというN師(自給司祭)だった。

 

むしろ、参観者のほうが、普段はイコンや歴史などの説明を聞くだけなので、興味深そうに奉事を見守っていた。

 

その後、ちょっとコーヒーを飲もうと、聖橋口近くにある喫茶店Hへ入った。ここは

昔は来たことがなかったのだが、最近コーヒーがたいそう美味しいことを発見してから、ごく稀にだが来ている。

 

ここは山岳と出版関係のひとのたまり場らしく、60年代の雰囲気があって、喫煙。何か読むものがないかな、と書棚を見たら、手前に「ニコライ」という本が置いてあった。とってみると、評伝シリーズの一冊で、このシリーズにニコライ主教のがあったのか、と驚いて、席に持って読み始めた。たいそう分厚い本である。

 

著者はニコライの日記を訳した一人でもあり、私もこれまでいくつか読んだことがある人だが、この評伝は目からウロコが何枚も落ちる面白さで、時間が経つのをすっかり忘れて読みふけってしまった。この本の存在を知らなかったなんて。

 

大変興味かったのは、私はニコライ・カサートキンはある種の宗教的逸材というか天才みたいなもので、それを個人の資質だと思っていたのだが、もちろんそれはあるとしても、時代背景が大いに関係していたということを知った。これまでの、聖職者などが書いた評伝では抜け落ちている視点である。時代のダイナミズム。

 

ニコライが日本にわたった1860年ごろは、クリミア戦争で敗退したロシアが、自らの後進性を克服すべく、アレクサンドル二世の農奴解放令にはじまって、さまざまな改革がすすめられた、いわゆる「大改革」の時代だったということだ。

 

ニコライはスモレンスクの中等神学校から、サンクトペテルブルクの神学大学へ進んだわけで、帝政ロシアの支柱ともいえるロシア正教会のいわば幹部候補生だったのだが、

驚いたことに、函館の領事館付き司祭というポストにつく卒業生を募ったところ、ニコライも含め12人ぐらいの応募があったという。従来なら国内で高位聖職者への階段をのぼっていくコースにいる者たちのなかにも、大改革時代の理想主義の風が吹いていたからではないかという。ポスト自体はたいしたものではないので、宣教ができることに魅力を感じた若者たちが多くいたことになる。

 

ニコライが即決になったのは、彼のみが修道司祭として赴任することを希望し、あとは皆妻帯司祭志望者だったためだそうである。

 

また、この司祭の派遣をもとめた函館領事のゴシケーヴィチだが、日本はまだ厳しい禁教下にあったが、宗務院に、「領事館付き司祭は、同時に日本でキリストの教えを宣べ伝えることができるだろう」と書いていることは、注目すべきことである。

 

そもそもゴシケーヴィチ自身が神学大学出身で、清国宣教団のメンバーとして10年近く北京に滞在、その後、外務省に転じたのであったが、そういった「転職」は当時のロシアではよくあったそうである。

 

この本で目からウロコだったのが、このゴシケーヴィチなどの例もそうだが、当時の時代背景として、いわゆる西欧の進歩派の影響を受けた「インテリゲンツィヤ」に対抗するものとしての、「教会知識人」という存在を、著者が再三再四強調していることである。

 

田舎の教区司祭と異なり、当時のロシア正教会の指導層は、ギリシャ語、ラテン語を学び、神学や教会史のみならず、貴族階級の知識人と同じ書物や雑誌、新聞を読み、流行思想にも通じている存在だったという。

 

当時のロシアは強固な身分制社会だったが、高位聖職者になれば、その出自に制限されることなく、上層階級に出入りすることもでき、社会的な活躍も可能で、身分の壁を超えることができた。

 

ニコライが、だから、東京で欧米の宣教師たちと交遊したり、議論することができ、さらに彼らの尊敬をさえ集めるようになったのは、彼がそうした「教会知識人」だったことによるということがよくわかった。

 

さらに、それだけでは彼の「天才」は説明できない。私が感じたのは農民的資質である。

 

ニコライは辺鄙な田舎の村の出身で、父は輔祭、いわゆる下級聖職者である。

 

彼の父は、老人になっても酷寒を恐れず、暖かい長靴をはかずという、体が壮健なひとであったそうで、最も近い町まで45キロの道を馬車で森を抜けていくのに、人の往来が途絶える夜中を選んでいた(混雑しないということらしい)ということである。

息子のニコライにもそういった傾向があったという。

 

ニコライは1860年8月にほぼ一ヶ月をかけて、ペテルブルクからシベリアを横断してイルクーツクに着くが、その間も、馬車を雇うこともあれば、自ら馬車を御したりもしたという。

 

つまり、彼の「宗教人としての才能」は、「教会知識人」であったと同時に、ロシアの農民の無骨で安定した気質や、常識的なものの見方、きまじめさ、活力という、クルマの両輪によってつくられているといった印象を受けた。後者のほうは、教育ではどうにもならない、生活に根ざしたものだ。

 

ニコライの日記にこういう箇所があるという。

「自然はわたしにまっすぐな良識と、さほど悪くない性質を与えた。教育はその良識から、奇矯な夢想癖を育て、善良な性質から、不安で疑い深い、ガラスのようにもろいたましいを育てた」(1876.12.20)

 

さて、アムール河からは2ヶ月かけて船旅をするが、ニコラエフスクに着くと、そこはもう氷結していて、とどまって越冬しなければならなかった。足止めを食ってしまったわけだったが、たまたまアラスカのインノケンティ主教が滞在していたので、週末には師の貴重な高話を聞く事ができたのが、のちの伝道事業にどれほどの利益となったか、とニコライは回想しているそうである。

 

「聖書と奉神礼などの祈祷書を、改宗した部族や国民の言葉に翻訳し、正教の土着化を図るべし」というのは、実にインノケンティの教えだったのだという。

 

インノケンティ師は細々としたことまでこの弟子に教えさとしたらしく、「リャサは進学校スタイルのものではダメだ。外国から来た聖職者ということで、日本では皆が注目するだろうから、一目見て畏敬の念を抱かせるよう、ビロードを買ってきてつくらせよ」と指示したのだそうである。

 

あまりに面白かったので、この本を買ってきて、今日午前中に3章まで、戊辰戦争のあたりまで読んだ。

 

御一新前に8年を函館で過ごしたニコライが感じていたのは、幕府は外国人保護に手厚く(ニコライが江戸に行った際も市中見物に大人数の護衛がつけられた)、開国主義だったから、まさか「政治上の革命」が起こるとは思わなかった、のだそうだ。さらに、幕府は、公式には禁教にしていたが、事実上は「黙許」だったので、それが御一新でひっくりかえって、大変だったようだ。

 

このように、正教会のことだけではなく、ニコライの慧眼をもってなされたさまざまな観察が、歴史のあやの微妙な部分を照らし出しており、面白いことこの上ない。

 

 

黒宰相

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春らしくなってきた。もう冬は終わりのはずなのに、山茶花がまた猫が原でちらほら咲き始めた。このあいだまでは、枯れ始めていたのに。気温のアップダウンに植物も戸惑っているのだろうか。

 

このところニュースが、安倍首相夫人が名誉校長を引き受けていた(騒がれてのち辞任したが)大阪の国粋的教育をする小学校への国有地払い下げ問題一色であったが(政治家の口利きがあったかどうかが争点)、今日の夕方5時半から、その学校の理事長籠池氏が記者会見をした。午後早い時間での会見の予告では、学校の認可申請を取り下げ、自身も理事長を辞任するということだった。

 

ところが。会見の内容は持論の教育論を延々話し、メディアの取材でこの一ヶ月まったく仕事にならなかったことなどを、述べ立てる内容だったが、20分ぐらい話し、これから質疑応答などがあるのかな、と思っていたら、いきなりニュース速報が流れ、NSC自衛隊南スーダンPKOから5月に撤退する決定をした、ついては首相が緊急会見ということで、籠池理事長の会見が途中なのか、終わったのかもわからないうちに、慌ただしく首相会見に切り替わった。

 

自衛隊南スーダン派遣については、安保法制が施行されたために新たに「駆けつけ警護」の条項が加わって、隊員の人命への危険がリアルなものになったために、反対の声が大きかった。にもかかわらず、政府は、現地は戦闘状態にはないと一貫して主張、実際はほぼ戦闘地域といってもいい状態だと言われている。

 

なので、この撤退自体は大歓迎だが、驚くのは、この小学校スキャンダルの渦中のひとの会見のタイミングで、撤退の決定をぶつけた姑息すぎるやりかた。誰が見ても露骨すぎるだろう。

 

安倍夫人に対する非難はとどまるところを知らず、週刊誌なども一斉に叩き出したため、自身の政権維持とイメージアップのためにこんな決定を急に持ち出したのだろう。

その「恣意性」、政治を自分の利益のための道具に使うやりかたには呆れるばかりである。

 

夫人は、たとえば、原発政策では夫と反対の立場をとり、また、沖縄のヘリパッド敷設反対運動の現場へ行ってみたり、夫より先に夏休みにひとりで真珠湾に行ったり、とか独自の行動をしていることで知られていて、私は一種の、反対派懐柔のための煙幕的別動部隊かなと思っていたのだが、そんな頭脳的戦略があるというより、単細胞のおバカさんだったということが、今回の対応を見てわかった。突然、くだんの小学校のホームページから、名誉校長の部分を削除してみたり。(今はスクリーンショットで保存しているひとがいくらもいることを知らないのかどうなのか…。)

 

学校の方針に共鳴して名誉校長を引き受けたのなら、それを貫けばよかったのに、「あまりつきあいはない」とか、教育勅語に心酔している割には、信義にあつくない行動をとって見苦しくもある。

 

それにしても、自衛隊の派遣という重要な問題を、自身のスキャンダル隠蔽に使うとは…。もし、この学校問題に関して潔白なのであれば、こんな姑息なやりかたをする必要はないわけである。却って、やはり何かがあったのだと思いたくなる。いや、あったのだろう。表に出ては自身の失脚につながるようなことが。

 

学校の認可申請取り下げなども、理事長が裏で言い含められたのだろう。同じ学園の幼稚園のことは前から知っていたが、虐待まがいのしつけまで行われていたことは、今回はじめて知った。ちょっと話せば、この理事長夫妻が定見も教養もない、すこぶるつきの下品なひとたちだということがわかるはずだが。

 

首相が焦るには理由があると思う。彼は自民党の綱領も今回改正して、総裁三期も可能にした。オリンピックを我が手でやりたいのだろう。が、この学校スキャンダルは国会で野党が追及しているだけでなく、与党のなかからも火の手があがっている。そうして、それらの議員は、おおむね、次期総裁に野心を持っているひとたちだ。

 

安倍夫人は、トランプ大統領夫妻とのフロリダでの会食でも、ひとりだけ大酒を飲んで(酒豪といわれる)、酒を飲まない大統領夫妻に呆れられていたなどとも、ぼろぼろ書かれるようになってきた。(首相自身も飲まない)

 

この夫婦が愚か者で利己的ということよりも、こんな風に、あからさまに、「できごと」を起こして報道をコントロールするということに、背筋の寒くなる思いがする。

 

 

 

 

 

村上読了

雨模様の日。寒さがまた戻って来たような感じもある。

 

村上春樹新作の第二部を読み終わる。「えっ、これでおしまい?」といった、わりあい凡庸な終わりかたでがっかりした。第一部はそれなりに面白かったのだが。

 

主人公は、現実と非現実のはざまを行き来するような、ある種の冒険旅行(現実的には数日の失踪というか居所不明)をして、それまでの繊細な体質に加えて何か確信、自信を得て、より地道な現実生活に戻っていく。

 

具体的に言えば、この世ではないような世界で、狭い横穴のようなところを抜け出ることによって、閉所恐怖症を克服し、俗な言い方でいえば、一皮むけて帰還ということになるのだろうか。

 

彼の冒険でサポートをするのが、老画伯の絵から抜け出てきた「騎士団長」だったり、

絵に描かれている女性だったりするのだが、それらは、精霊みたいなものなのだろうか。また、その「試練」の際に、おまけのストラップみたいなちょっとしたものが「お守り」になる。

 

また、「お守り」は、そうした物質だけではなく、「試練」のなかのパニック状態で、

意識をそこに集中させる「何か」(記憶のなかにあるもの、飼っていた猫だったり、

思い出だったり)だったりもする。

 

私はゲームをしないのでわからないが、いわゆるロールプレイングゲームみたいな感じが読後感としてはある。こころの成長物語といえようか。

 

ただし、最終章はそれ以前のできごとから数年あとの、東日本大震災が書かれており、

唐突な感じがないでもなかったし、未消化な感じが否めない。

 

何かで読んだのだが、彼はあの震災のとき、ハワイに滞在していたという。そんな「距離感」を感じてしまった。

 

それでも、不思議な夢に悩まされたり、おかしな現象が起こる自分としては、どうやって、現実に錨をおろすか、という参考になったとはいえる。同類がいるのは、やはり安心できるというか。

 

あるいは、煎じつめていえば、危機的状況に陥ったとき、ひとは何を「よすが」にして生き延びる、あるいは生き続けることができるか、ということの、ひとつの回答かもしれない。

 

 

雛まつり

今日は雛まつり。家のなかにシクラメンの甘い香りが漂っている。白い花というのはなぜか香りのよいものが多い。

 

昨日は元スパイダースの、ムッシュかまやつこと、かまやつひろしの訃報が流れて、定時ニュースでもかなり報道されていて、意外に思った。

 

私は中学生の頃、周囲がタイガースの沢田研二とかに騒いでいたころからの、かまやつファンで、昔は「変わってる」と言われたが、今では彼は国民的追悼を受けるほどの人気になったのかと驚いたことであった。

 

大人になってからはそんなに彼の音楽を積極的に聞くということはなかったが、飄々としたあの感じはずっと好ましく思っていた。

 

自伝もかつて読んだことがある。記憶に残っているのが、自分が長く音楽業界でやってこれたのは、大ヒットを出したことがなく、中どころの人気でコンスタントにやってきたからではないか、と書いていたことである。

 

ソロとして活動するようになってからも、ずいぶんいろいろなところに曲を提供していたのだなあ、と昨日知った。

 

訃報が流れると、皆だいたい良いことだけを言うが、このひとに限っては、すべて本当のことだと思う。音楽を本当に愛していて、暖かい人柄だったと、誰もが言っていた。遊んでばかりとか、のんびりしているように見えるが、「それなりに自分も結構勉強しているんですよ」と言っていた映像があったが、そうなんだろうと思う。

 

自分のペースを淡々と守って、しかし情熱を失わないというのも、なかなかありそうでない。自分の青春が去ったようで寂しく感じたことだった。

 

 

 

 

ねこがしま

2月も最後の日。すいぶん暖かくなった。今日は「ビスケットの日」、また「バカヤローの日」でもあるのだそうだ。かつての、吉田首相のバカヤロー解散にちなんでいるとか?

 

おなかの調子が悪いので、お昼はお粥にして、梅干しを食べたが、梅干しの美味しさが文字通り腹にしみ通る感じだった。なんでも食べられるときは食事のシメとしてつまんむぐらいなので、味わいがわからないのかもしれない。

 

このところ毎晩のように見ているのが、青島の猫たちの写真だ。青島は愛媛県の長浜の沖合いの小さな島で島民より猫の数が多い、「猫の島」として世界中から観光客がやってくると聞く。

http://ameblo.jp/catsisland/

 

ここはクルマも自転車もなく、犬もカラスもトンビもおらず、人間もお年寄りがほとんどなので、猫にとっての天敵がいっさいいないせいか、ここの猫たちは皆外猫だが、とてものんびりした感じなのである。

 

また、近親交配ということなのか、似た感じの猫が多く、顔もなんとなく愛くるしい猫が多い印象で、見ていてこころがなごむ。夜就寝前はだいたい青島の猫を見ている。

 

島には宿泊施設もないので、対岸の長浜からフェリーで日帰り、最長でも8時間しか滞在できないし、食料も自前でもっていかなくてはならないらしいが、実に楽しそう。

 

お昼は猫たちが「おねだり」するので、多めにもっていったほうがいいというアドバイスもある。猫じゃらしなども。http://aoshima.ec-net.jp/long100.html

(どこかで、駅のロッカーに、ある程度はじゃらしを置いてあるとか読んだこともある)

 

難点は冬場には海が荒れて欠航が多いことで、冬でなくても悪天候だったりすれば島に渡ることはできないことだ。

 

以前はだから猫達もいつもお腹をすかしていたらしいが、今は全国からキャットフードや毛布といった支援物資が届くので、人相ならぬ「猫相」もおだやかになったという。

 

同じような猫が本当にたくさんいて、めくるめく不思議な世界である。

 

あまりに不便なところなので自分で行ってみようとは考えなかったが、どうやっていくのだろうとネット検索したら、いろいろなひとがブログなどを書いて、懇切丁寧に説明してくれている。

 

 

東京からだと、松山に飛んで、予讃線に70分乗って長浜に出、そこからフェリーに乗る。小さなフェリーだから、8時間滞在だと帰りの便に乗れないひとも出てくるのではないか。

http://nekonoshima.miau2.net/aoshima-access/

 

 

 松山は一度空港を使っただけで、観光などで行ったことはないが、「坊ちゃん」の舞台らしい、のんびりしたよい感じのところだった。

 

一度「猫が島」に行って猫まみれになってみたいなあ、と、今日は熱っぽいアタマで、「ネット旅行」を楽しんだ。桟橋に猫達がお出迎え、なんて、素敵だと思う。観光化されていない「猫天国」がずっと続くとよいなあ、と。