FRANNY AND ZOOEY

朝は燦々と太陽が照っているが、今日は全国的に荒れ模様で、強風が吹く日だという。

  

昨日隣駅まで出かけたが、スターバックスとかで読むものがあるとよいと思い、本棚にあったFARANNY AND  ZOOEYをバッグに入れておいた。英語版だが、パラパラ読みであまり真剣に読んだことはなかったのだ。翻訳はずっと昔に読んだけど。

 

スターバックスでは、隣の女性たち、27、8歳ぐらいだろうか、ひとりがこの春か夏に結婚するので、ドレスの試着に行ってきた話をしていた。お色直し用のドレスのことらしく、「結局、どれも、これが絶対に着たいというものはなかったので、どれでもいいぐらいの気持ち。それにしても、よく考えてみると、なぜカラードレスを着るんだろうね。白のままでいいのにね」などと、当人が言っている。相手もうなづいている。

 

結局、式場ではすべてがセットになっていて、それでホテル側は利益を出しているので、ドレスを着替えさせたりするのだろう。かつての「お色直し」の、嫁ぎ先の「色に染まる」という「着替え」の意味が、たぶんかたちを変えてドレスにも継承されているのかもしれないが、こういうカラードレスは歌番組の出演者みたいにしか見えないし、民俗学的風習としての意味はもちろん消えてしまっている。

 

話の当人は、いずれ彼が転勤になって地方へ行ったりしたら、「もつ」だろうか、などと不安だと話している。「なんかあっても」(仲違いのことだと思うが)実家が近所にあれば行き場所があるけど、友達もいない、仕事もしてないから同僚とか知り合いが一切いないところへ行ったら、どうなるかな…と言っている。

 

相手の女性は、なにか趣味を始めて、週一ぐらいに定期的に会うひとたちがいれば、だんだん知り合いもできるだろうけど、それでも親しくなるには半年や一年はかかるよね、と相槌を打っている。

 

二人とも今どきの女性にしては、割合にしっかりした話し方で、且つ、世間や相手のこともクールに分析していることが面白く、素知らぬ顔で読書しながら、聞き耳を立てていた。

 

女性は一般に、立場が弱いせいもあり、計算高い面があるが、よい意味で、生活設計ができているというか、割り切りがあって、だから元カレとはこうして別れ、結婚は別のひと、ということらしく、パッションがあまりない分、問題が出てくるとやっていけるのか…と不安になっていることが話から感じられた。

 

私はそのとき、FRANNY AND ZOOEYを読んでいたのだが、フラニーは周囲の人々の俗物ぶりに辟易して、神経症気味になっているわけだが、「世間胸算用」的な結婚話を聞きながら、これを読んでいるのも、なんだかおかしなことだった。

 

この中に出てくる、フラニーがどこへでも持ち歩いて読みふけっている The Way of a

Pilgrimは私も、たぶん正教文学(というのものがあるとすればだが)のなかではもっとも好きなもので、昔、青年会室の本棚に小さな冊子形式で置いてあったものをそのまま借りっぱなしで所有していたのだが、翻訳ものちのものよりずっとシンプルで、この巡礼のこころの風土にぴったりのものであったのだが、どこかへいってしまった。

 

Frannyを読むと、The Pilgrim continues His Wayという続編があるようだが、これもまとめて、上記の小さな冊子になっていたような気がする。

 

Frannyを読んではっとしたのは、このところ、夢見に毎晩悩まされ、さらにそれをあれこれ考えたり(そこまでぐらいはよいのだが)、カードリーディングなど、いわゆるニューエイジ的なこともしているので、そのせいだけでもないが、自分が疲弊していることを感じたからだ。つまり、あれこれの宗教を遍歴していることがフラニーの神経症の原因だとゾーイーが言っていることは、ある意味当たっているし、自分にも重ねて見てみることができる、と。

 

私の夢の「警告」は、「裏切り」に関するものがかなり多いのだが、たぶんあらゆる人にその「芽」はあるのだろうが、それが必ずしも発芽するわけではない。けれど、その「芽」を知らされると(たしかに論理的にうなづけるし、自分では考えもしない意外性があり、却って真実味がある)、人間関係から身をひきたくなるのは、自然なことかもしれない。

 

が、それをやっている限り、ひととはつきあえないし、人間は孤立して生きていけるものでもない。そうした怖れを払拭するには、十分気をつけながら、しかし、最悪裏切られても、裏切るよりはよいかもしれない、と、納得するしかないという気がする。

 

が、一方で、そうした心残りは、精神的にダメージを受けて、長く尾をひきそうだし、

おそらく死後にさえ、その「思い」は残るかもしれない、と思うと、それはそれで怖いものがある。実際に「遺念」というか、そういう夢さえ見たことがある。

 

たぶん、自分は「良いこと」「正しさ」にこだわりすぎているのかもしれない。そんな無菌状態は人間界にも自然界にもありえない。

 

いずれにしても、優れた文学作品は、「救い」になりうるのだなあ、と思ったことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぽん酢

4月の陽気だった昨日から一転して、寒い日。昨日の軽いコートから、またダウンジャケットに逆戻りした。

 

冷え込むので、今日の夕食は知床鶏の団子入りの、鍋物にしたのだが、ふと思いついて、いつものぽん酢ではなく、このあいだ購入した、すだち入りの手作りポン酢というのを使ってみた。

 

今のミツカンのが終わってからと思ったが、寒い季節もそろそろ終わりだし、美味しいものは早いうちに…などなど、自分でもいいわけをしながら、新しいポン酢の封を切った。

 

これがとても美味しくて、能書きを見ると、醸造酢に加うるに、だいだい、すだち、ゆずの果汁が入っている。そのほか、みりんやカツオ削りぶし、昆布などももちろん入っているが、さっぱりして、柑橘類のハーモニーが爽やか。化学調味料などが一切入っていないスッキリとした味。どこのとは書いてないが、塩も「天日塩」と書いてある。

 

水炊き、焼肉、酢の物、サラダ、餃子、焼き魚、大根おろし、お浸し、湯豆腐などに、とラベルに書いてある。

 

私はサラダなどもドレッシングをかけるのがあまり好きではないので、これはいいかもしれない。

 

製造元は、島根県出雲の醤油メーカー。大きな神社があるところは調味料が美味しいのか…とか。伊勢の醤油というのをかつて使ったことがあるが、これもとても美味しかった。

 

贅沢はあまりしないが、調味料だけにはこだわりたい。たしかに普通のぽん酢の二倍はする値段ではあるが、といって、山のように使うわけでもないし。もし、いちいち、

かぼす、とか、すだちを買っていたら、却って高つくだろうし。

 

出雲地方は仕事でかつて一度行ったきりだが、奥出雲ワイナリーへも行ったし、乳業メーカーでもとても美味しいところがあった。案外グルメランドなのかもしれない。

 

そんなにすごいものでもなくても、各地にちょっとした美味しいものがある。

 

忘れられないというと大げさだが、高知の坂本龍馬空港で立ち食い蕎麦みたいなのがあって、そこで食べた「あおさ」の入ったうどんが「あおさ」の香り高く、とても美味だったことを思い出す。

 

謳い文句や能書きでなく、普通のもので、「これは美味しい!」というのが、一番感動的かも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バランスをとる

これから2、3日は暖かくなるらしい。ベランダの植物が厳寒期より元気になってきた。

 

日米首脳会談、北朝鮮ミサイル発射、金正男氏暗殺など、風雲急を告げるような事件が立て続けに。今年はロシア革命からちょうど100年。だから、100周年であれこれ起こる、というわけでもないだろうけど。

 

実は懸念しなければならないのは、じわじわきている日本の放射能問題である。極端なことを言っているひとたち、あるいは、危険を煽ることで「商売」をしているようなひとたちは困るが、低線量のゴミや汚泥をどんどん一般廃棄物として処理するよう、基準が緩んできているし、そうなれば、水の汚染、ひいては大気循環でいろんなところに影響が出るだろう。

 

実際、猫サイトなどを見ていると、福島で保護された猫の里親探しなどで、障害を生まれ持っている猫がいたりする。手術をして、たいそう手をかけて介護されているから、そのこと自体はよいと思うが、障害を持って生まれる動物も増えているのではないか。

人間にも重度の肺や心臓の異形成の例があるのをあるブログで今朝見た。まだ生まれていない胎児の、超音波による診断で、確定診断ではないそうだが、問題があるのは明白である。

 

植物やチョウなどの異形成はもっと早いサイクルで出てきているらしいが、あまり報道されることはない。

 

さらに、遺伝子レベルで、もっと先の世代に影響が及ぶということもある。北国の家の、お向かいさんは、話してみると、私が以前住んでいた地域の隣あたりに住んでいて、北国へ来た理由が言わなかったが、夫は時々首都圏からやってきて、転勤ではないのである。二人の子供は年齢の割にはとても小さく歳を聞いてちょっと驚いた。

 

あるとき、奥さんの母親というひとが世話にきていて、広島から来ている、ということであった。慣れない土地で、小さな子供二人の世話は大変である。

 

広島、と聞いて、納得した。放射能の怖さが身にしみているのだと思う。子供達は被爆からたぶん4世代目ぐらいに当たるはず。

 

「ただちに影響はない」ということが、この問題の最も怖いところだと思う。私も還ってきた当初は、外食とかおっかなびっくりだったが、今ではもうゆるゆるになってしまっている。それでも、肉や野菜、北海道や九州のものを買っている。お米は北海道米のみ。魚はほぼほとんど食べない。

 

私の夢で、「黒く」あらわれるのは、放射能だったり、ナチスだったり。2020年オリンピックは、ありえない「黒リンピック」だと思うけど。

 

 

THE HEART OF CHOPIN

今日までがまだしも暖かい日。明日から寒波が戻るという。

 

隣の駅に買い物に行って、いつもと反対側の出口の商店街へ行った。こちらの本屋のほうが品揃えが多く、売れ筋ばかり置いているいつもの本屋とはちょっと違っていた。

 

何気なく棚を見ていたら、「ショパンの心臓」という本が目に入った。「あ、ワルシャワの聖十字架教会にあるあれか」と見てみたら、ミステリーのようだ。パラパラ見たら、ショパンの心臓は、遺骸を帰国させると民族運動に力を持つという理由で帰国を許されず、心臓のみを密かにパリから持ち出したそうで、ショパンの姉がドレスの下に隠したりして運んだという逸話があるようだ。

 

階下の猫おばさまが、老人の手習いでピアノの練習をしているのに刺激されて、昨日はこちらへ来てから一度も開けていなかった電子ピアノを開けて練習し、譜面の整理などをした。それをラックに投げ込んでおいたのだが、ショパンが表に出ていて、通るたびに「CHOPIN」が目に入っていたのだった。

 

そんな時にショパンに関する本に出会うのも不思議だが、そんなことは最近よくある。

 

さて、そのあと、立ち読みした佐藤愛子の本が面白かったので買って読んだ。

 

この90歳の「烈女」作家はあまり読んだことはないのだが、一本筋の通った性格を好ましくずっと思っていたことと、彼女が北海道の浦河に建てた別荘での超常現象が世の中でも有名で、そのときにその地の除霊というか慰霊に貢献した霊能者がのちにマスコミの寵児になった。

 

その別荘の怪異現象のことは以前何かで読んだことがあって、ポルターガイストとか、

勝手に動くファクスとか、誰もいないのに電気がついたりとか「こんなこともあるんだなあ」と思っていたが、今回読んだエッセイに簡単に触れてあったが、その土地はアイヌに対する残虐非道な行為(虐殺、強姦など)がおこなわれた土地だったこと、また、佐藤氏の一族がアイヌと浅からぬ因縁があったことが起因しているらしい。そういう土地の由来を知らずに、土地を買ってしまったわけだが、売った方は由来を知らないわけでもないと思うのだが。

 

こうした一連の霊体験を通じて、佐藤氏は体は滅びても魂は残ること、死ぬ際の意識のありようの大切さなどを感得するにいたったという。

 

翻って、おともだちのおとうさんのことだが、たしか、8月の14日に亡くなったと聞いた。時間はわからないが、私はその夕方、急に頻脈になり心臓が苦しくなり、クスリを飲んで1、2時間寝ついたのだったが、時々不整脈はあっても、それはだいたいストレスだとか、過重な労働をしたとかの明確な理由があるのだが、そのときは、まさに、突然因果関係なく襲われたのだった。

 

お盆だし、病院は休みのところが多いし、焦ったが、手持ちのクスリでなんとかことなきを得たが大変だった。

 

のちに、おともだちから、おとうさんが亡くなったことと日付を聞き、その日のことを思い出し、何か腑に落ちるものがあった。

 

また、去年の秋だったか、闇のなかで黒いスケルトンがじっと私を見つめているイメージが浮かんだ。怖かったが、やがてそれは黒い紙に描かれたもので、風が吹いて紙を巻き上げ、どこかへ飛び去った。こちらの方は私の「怖れ」が生み出したものかもしれないが、そうとも言えないリアルなものでもあった。

 

それ以来、そういうものは全く見ない。

 

おともだちは、12月の電話で毎日泣いていると言っていて、私もこころが痛んだ。が、伏せていたけれど、こんな話も、あったわけだった。

 

 

 

猫談義

f:id:amethystlady:20170204143110j:plain

また寒さが戻ってきた。昨日は猫が原の樹木の剪定に業者さんが入って、大々的に枝をはらったので、原っぱは、なんだかスカスカである。チェーンソーの音が一日中鳴っていた。

 

一昨日の午後、ふと思いついて、階下のやはり一人暮らしのおばさまのところを訪問した。この人とは「寒いですね」と会ったときに立ち話をするぐらいだったが、昨秋、急に猫達がいなくなったときに、さりげなく猫の話題をふってみて、さらに、自分がこっそり餌をやっていて、お宅の迷惑になったのではないかと話してみたら、なんと「実はウチにも一匹いるんです」という驚きの話で、よかったら猫談義でもと言われていたのだった。

 

お菓子を持って、初めて訪問したKさん宅の猫は、少し和猫ではない血がまざっているらしく、とても足が長く、おとなしい猫だった。ソファの上に置いたサークルのようなところに入って鎮座していたのだが、しばらくすると、隣の私の膝の上に乗ってきて歩いたりした。

 

猫達が姿を消して、今は別のグループが来ているのだが、そのなかにいかにも凶悪な顔の黒猫がいて、Kさんも私もやっぱり「人相」ならぬ「猫相」はあるのだということで、意見の一致をみた。

 

胸が白い、灰色の猫が時々来るのだが、これがとてもこの黒猫を恐れていて、いつも周りを見回しているのである。この灰色猫はオス猫だと思っていたのだが、Kさんによると、メスなのだそうである。メス猫はある程度になったら、体が大きくならないとか。骨格でわかるらしい。

 

Kさん宅のニャンコは前の猫が、Kさんのご主人が病死したあとひと月で亡くなり、どうにも寂しくてたまらず、シェルターでもらってきたのだそうだ。実はそのシェルターに行ったとき、とても綺麗な猫が何匹かいたのだという。そこに、小さくてショボクレて、育つだろうかというような猫がちょろちょろしていたのだが、それが突然Kさんの膝にトンと乗ってしまったのだという。

 

そうされると、「縁」のようなものを感じ、育つかなあと不安もあったけれど、その猫をもらうことにしたのだそうだ。それが今ではあまり病気もしない元気な猫になったとか。

 

私たちが猫の一代記を話しているとき、猫はじっと耳を傾けているみたいだった。

Kさん曰く、とてもひとのこころがわかる猫なのだそうである。

 

私も、犬より猫のほうが人間のこころを読めるような、繊細な能力がある気がする。また、ある種のシックスセンスも猫は割合強く持っていると感じる。

 

Kさんの話では、ここではペット飼育禁止だが、かなりたくさんのひとが実は猫を飼っているそうである。

 

1時間ばかり、お茶をいただきながら猫談義したのだが、そばに猫がいる時間は、なにかいつもと違う時間が流れている。野生とか、こころ、とか、なんなのだろう。時間の密度が濃くなるような何かが。

 

f:id:amethystlady:20170204143213j:plain

 

水と夢(節分)

明日は立春、今日は節分、豆まきの日。「節分」というだけあり、天地の流れも大きく変わる「節目」。

 

12月に、おともだちと長い電話をしたが、その時風邪とか予防注射のためあまり体調がよさそうではなかったので気になっていたが、様子を知る手段もないような状況ということもあったのだが、ついに意を決して昨晩電話してみたのだが、留守番電話になっていた。あちらは朝だし、仕方がないかと思ったのだが…。

 

そうして眠ったのだが、なかなか寝付けず、明け方、夢を見た。砂漠に咲いているひとむらの花があるのだが、それが消えてゆく。

 

また、しばらくして、ベランダにある猫のお皿に水が入っていない(実際はベランダにそういうものはないのだけど)ことに気がついて目がさめた。

 

このところ、水に関する夢をよく見る。

 

「ああ」と思って反省した。

 

私は、どんな内容でこのブログを書けばいいかで頭を悩ましていたのだけど、それが

おともだちのこころに届いていなかったのだな、私がおともだちを大切に思っていることはわかりきったことだと思っていたのだけれど、そんなことはなくて、その気持ちが「注がれて」いなかったのだ、と感じた。

 

「これからどうすれば」とか「ああしよう」「こうしよう」とばかり考えている自分に、夢が気づかせてくれたようだった。