戦争と平和 第6話

また、割合暖かい日が続いている。こちらは内陸なので朝晩は多少冷えるが、キルティングのジャケットを着て出かけたら、かなり暑かった。帰宅して駅に降りると、ケヤキの紅葉が進んでいるのが目に鮮やか。夕焼けで空があかね色になっていた。街全体が夕焼け色というか。

 

今週の「戦争と平和」にはまたしても感心してため息が出た。前半の山場アウステルリッツの戦い(軍旗を守った勇猛果敢なアンドレイが英雄となった)と対応して、今回は後半の山場、ボロジノの会戦前夜までの話なのだが、なんというか、愛国的(この場合はロシアの、という意味だが)な物語りかたで、国を守るということは、そうか、こういう感覚なのだなということがよくわかったのだった。

 

シナリオが巧みというか、ナポレオンの侵攻に対して、貴族階級も農民も二つに受け止めかたが分かれているのである。アンドレイの父、ボルコンスキイ公爵のように、避難をすすめられても、自分の領地から一歩も動かない、はては、古い軍服を持ち出して正装し、周囲の止めるのも聞かず騎乗して出かけようとする者もいれば、その娘のマリアが避難するために馬車を用意させようとすると、領地の農民たちは、馬はもう村には残っていないと館まで押しかけてきて、彼らの行く手をはばむのだった。

 

この時点で、ロシア革命まではあと100年あるのだが、農民たちの意識のなかに、もう「王を倒したフランス」への共感が芽生えているのを感じさせる、含意のある、マリアと農民の対決シーンだった。

 

また、迫り来るナポレオン軍の噂をしながら、ペテルブルクでまだ夜会に興じている貴族たちのなかにも、ナポレオン・シンパが少なからずおり、内心、ナポレオンに占領されればそれはそれでうまく立ち回ろうと、「フランス語にちょっと磨きをかけておかねばね」みたいな会話がひそひそ交わされていたりする。

 

こうやって物語を俯瞰していると、実はナポレオン戦争というのは、ナポレオン自身の覇権云々というより、ローカルな文化や国に押し寄せる「普遍主義」「啓蒙主義」、さらには「革命精神」と、地付きの文化の戦争だったのだなあという感を深くした。

 

アウステルリッツの戦いはオーストリアの領内で行われた戦いであるのと異なり、ボロジノはモスクワの西方であり、クトゥーゾフ将軍が「ここは我らの土地なのだ。奴らにはやらん」と息巻くのも、印象的であった。仏軍侵攻に追われて逃げ出す農民なども、

「彼らには渡すものか」と家屋に火を放つ。

 

そうした銃後の避難が続くなか、ピエールが会戦前夜の宿営地にアンドレイを訪ねていくのだが、彼を探していると、僧侶たちの一団が聖旗や聖像を持って行列し、周りが一斉にこうべを垂れるシーンが挟まれていた。

 

今回の前半は、アンドレイの不在中に別の男と駆け落ちしようとしたナターシャが自らの非を悔いて苦しむ話だが、その際にも、教会で蝋燭をあげ、祈るシーンがちらりと挟まれていた。

 

戦争における僧侶の祈りとか、ナターシャの祈りの場面もそうだが、ごく短いシーンだし、他の映画でもこうした場面は挿入されるが、なにか異なった味わいがあって、BBCの制作にもかわらず、誰かロシア人のアドヴァイザーがついているのでは、という印象を受けた。ロシア人の精神性における「正教」の感覚が、「外からみた」「エキゾチック」な感じではなく、「ホンモノ」という印象を受けたのである。

 

革命の啓蒙思想はメイソン的なものだと思うが、それがあれほど何度もロシアでは禁止されたというのがよくわかった。もちろんそういう意図でシナリオが書かれているわけではないだろうけれど。

 

そうして、彼らが「守ろう」としたものはーーアンドレイが一時連隊指揮から抜けて、父や妹たち家族がどうしたか様子見に訪れた実家の領地の館への道すがら、野原で見かけた、そのあたりを駆けまわっている農夫の娘たちのスカートから少しのぞいた白いふくらはぎ、それが彼の脳裏に焼きつくようなシーンとなっているのだが、そうした土地に根ざしたものなのであった。

 

このあたりの儚い「エロス」の感覚は実に美しく、凡百の戦争映画を大いに凌いでいた。