HIH Prince Mikasa

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昨日今日と、この季節にしては珍しく暑いぐらいの、陽射しの強い日だった。朝起きたら、猫が原には、いつもの小さな落ち葉だけでなく、大きな枯葉が何枚か飛んできていて、秋が深まりつつあるのを感じた。午前中は、妙に風の強い日だった。

 

風が強いのは、三笠宮の逝去のせいでもないとは思うけれど、朝は号外も配られたようで、テレビも過去の映像を流したりしてそれ一色。戦争中の軍服姿の中国でのフィルムなど、今まで見たことがないものがあって、興味深かった。

 

気になったのは、まったく間違いではないだろうけれど、報道のトーンが、宮様は「リベラル」「皇室批判もした」「戦後は歴史研究者として生きた」、これら一色だったことだ。

 

しかし、陸軍大学校を出た軍人であり、戦争中は、陸軍の参謀として南京に赴任していたし、大本営の参謀までつとめていたわけだから、「戦争中から戦争に批判的だった」というのはいささか誇張があるのではないだろうか。

 

当時、プリンスであっても、大本営でそうしたことを言うことは果たして可能であったのかどうか。が、実際に、東條内閣打倒計画(未遂)に加わっていたことは事実らしい。未遂に終わったのは、東條を暗殺まですることを宮がためらって、憲兵隊に通報したためのようだ。

 

また、戦後、紀元節神武天皇が即位した2月11日)を祝日化する話が出た際、歴史学徒としての立場から、即位の日付は、後代のひとの作為である架空のものを太陽暦にあてはめたものでしかないとして、反対していることは事実。

 

これだけをもって「リベラル」ということはできないかもしれないが、いずれにしても、戦後は皆が今度は反対に針が振れたようであるのと同じことが、三笠宮の発言や生き方にも起こったのかもしれない。

 

軍人からリベラル知識人へというと、「転向」という言葉を思ったりするが、あるいは、本人のなかでは決着がつかない複雑な感情があったのかもしれない。実際に戦時中中国にいたので、中国人に対して大きな罪責感を感じていたのは事実だと思う。

 

中国語とヘブライ語に堪能だったというのはちょっと驚きだが。