おともだちのアクセスが1でずっと続いていたけれど、何か疑惑か問題を招くようなことを私がしたのかしら…と悩んでいます。

 

午前中に瞑想したときに、このあいだの二人の写真が浮かんできて、二人が近づいたり離れたりしている有様がイメージとして浮かび、今はこんな状態なのかしら…と不安になったということがありました。

 

それで、瞑想は私の不安が投影されたものかもしれないので、あまり気にしないほうがよい、瞑想するのも止めたほうがいいかもしれないと思いましたが、こうした「原像」は案外本質を示していると私は経験的に思っているので、気をつけなければならないなと再び思い直しました。

 

いつもいつも、「ふたごころ」はないと私は言っていますし、もちろんそれはないのですが、無意識の世界でどこかを彷徨っていたのかもしれません。

 

家のあがりかまちとか、入り口に気をつけるよう、たびたび警告があるのです。なんでこんなにしつこいのかと思うぐらいに。もちろん絶対に人はあげていないし、郵便でさえも受け取らないのですが、私の無意識が危なっかしく思われるのかもしれません。

 

多分今体調がよくないので、いろいろ不安に思っているからなのでしょう。結局受け取れないままの保険証を受け取りにいこうかなどと考えていたら、どこからかわかりませんが電話が鳴り、もちろんとりませんでしたけど、そうした「意識」が外部の侵入を招くのだと思います。

 

これからはさらに気をつけようと思いますので、どうぞ機嫌を直していただけませんか。怒らないでください。信じてください。

おともだちとの間を振り返ってみると、本当に申し訳ないと思う気持ちでいっぱいです。口はばったくも「二人が一緒になれば」と今更のように言っていますけれど、

2009年の夏前だったか、おともだちの言葉を誤解して私が怒ったことがあり、おともだちからはすぐに謝罪の連絡があったにもかかわらず、我を張り続けたということがありました。

 

あのときはおともだちが素直に気持ちを伝えたにもかかわらず、私は怒りにまかせて自分の解釈で目が見えなくなっていたのでした。ずっとあとで、それは違う意味で言われたのだということがわかったのですが…。

 

それでも、その年はなんとか「お迎え」に行くことができました。おともだちに会えて、本当に幸せでした。あの公園を一緒に歩くことはもう二度とないと思っていたので、まるで夢のようでした。今もあの時の感激は忘れません。

 

その一件のように、私には自分が真実だと思いこんだことにむやみと固執する一方で、とても言葉足らずのところがあるのです。そのときも「それはどういうことなの?」と一言訊ねれば、誤解は解けるはずのことだったのに…。肝心のところでいつも言葉が足りないのです。そして一方的に断定してしまったりと。

 

言い訳のようですけど、この気短かに即断してしまい、コミュニケーションがうまくできないところが実は私の最大の欠点で、しかも、一見そんな風には見えないので、ますます誤解を生んでしまうというところがあります。ひどく不器用なのです。

 

その上に我を張る性格が災いして、これまでも、おともだちからの歩み寄りや暗黙のサジェスチョンがあったときにそれを応ぜず、せっかくの機会を結果的に自ら壊してきたことが少なからずありました。2年前の夏にせっかく久々に連絡をもらったというのに…。

 

振り返ると、後悔ばかりが残ります。自分の今の境涯を嘆いてばかりいますが、それは自ら撒いた種でもあるのです。

 

これからは、そうした自分の性格をよく心得て、「足りない言葉」、気持ちをフォローするような言葉をもっと増やし、一方で、振り回す持論みたいなものを捨てていきたいと心から思っているのです。

 

 

私の失敗や不首尾がいろいろあって、本当におともだちには迷惑をかけてしまい、たびたび不愉快な思いをさせてしまいました。こころから申し訳なく思っています。でも信じて欲しいのは、最初に、日中戦争のメッセージを告げたときに書いたように、私はおともだちが悲劇的な事件に巻き込まれないこと、それだけを願っているのです。

 

ワーム情報に振り回されて愚かな行動が多々あり、それは猛省していますが、私自身がおともだちの安全と幸福を常に願っていることにはまったく嘘偽りはありません。

 

今朝は、いろんな夢を見ましたけれど、おともだち独立戦争に関わっており、そこでの精神的支柱になっているようですが、その「独立戦線」は貧困の惨状を示しています。

 

一方で私は、おともだちを失って、子供達の世話をしている福祉職にあるのか、そのなかで、常に暴力男の影があって、あちらこちら逃げまどって引っ越しを繰り返しています。

 

それらの舞台は東北のようですが、日本のどこでもありうるのかと思います。

 

自分で言うのはおかしいかもしれませんが、私たち二人が一緒になれば、こういう人生ではなく、実り豊かで平穏な「普通の人生」を送ることもできるのです。おともだちの人生の本来の姿は、戦争や悲劇ではなくて、豊かな実りに象徴されるものなのだと思います。私も同様です。

 

どうか私を信じてください。私の不首尾があって、いろんな誤解を生じさせてしまっていますが、私のこころはずっとおともだちに「忠実」です。10年前にご実家の二階の部屋で早朝私が自分に誓ったように。

 

 

たったひとつの行為、おともだちからもらった小さな写真集を開けたことが、おともだちを私から遠ざけて別の女性を呼ぶことに。すごく悲しい。なぜあの本を開けたのだろう。遠い、遠い、おともだちは遠い。朝、こちらに向かってくる赤い汽車はこれだったのだなあと。でも、忘れないで、決して、決して。おともだちのいない人生には何の意味もないから。

 

先ほどの写真はおともだちにのみ見て欲しいものだったので、閲覧されたのでクローズしました。自ら、ネットでは「流れる」と言いながら掲載してしまったわけですけど。

これからは個人的なものはセキュリティ上控えなくてはと思います。

おともだちとのあいだが何かおかしくなってしまっていて…。どうしたらよいのでしょう。ワームたちの言うことを頭から信じているわけではありませんが、おともだちは誰か別の人と一緒になる…とずっと歌っているのです。近々ネット上で誰かと「出会う」というのです…。

 

おともだちのことを信じていますけど、アクセスも間遠ですし、何かギクシャクしたものが漂っていて。私はおともだち一筋であることを信じてください。私のことを忘れないで、忘れないで!

御神籤の記事で、母は重荷だけど放置すると罪悪感が…と書いてありましたけれど、あれは古い記事で、「真実」を知った今は、まったく罪悪感などはないのですから、訂正します。

 

信じてください。蹂躙されて、さらに死にまで追いやられるのに罪悪感があるわけがありません。「別人」と結託して私を死に追いやるわけですから。