梅雨も間近

ここ1週間ぐらい、スッキリしないお天気が続いている。今から本格的に暑くなっても困るけれど。不安定な天候で、突然の雨や落雷などもあるようだが、このあたりは静か。雷は栃木や群馬といった北関東に多い。

 

 

リサイクルに出すセーターとカーディガンをクリーニングに出したら、カーディガンの貝ボタン全部に丁寧にアルミ箔が巻かれていたので、とても小さなボタンだし、いちいち外さなくてはならなかった。

 

しかし、考えてみれば、そんな御大層なカーディガンでもボタンでもないのだが、その仕事ぶりはすこぶる行き届いている。

 

私はドライクリーニングの匂いが好きではないので、セーター類はほとんど手洗いしてしまうが、もう自分が着ないものなので、久々にクリーニングに出したというわけであった。

 

最近は「手洗い派」が結構多いらしく、ダウンコートなども浴槽に入れて、自分で洗ってしまうとか。さすがにそこまではやったことがないが。

 

5月もあと10日ぐらいを残すのみとなった。沖縄はもう梅雨入りしているし、今日は北海道は真夏日だそうだ。

 

ついこのあいだまで、寒さの心配をしていたと思っていたら、もう、大雨の心配の季節になった。月日の経つのは早い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お出かけ

雨は降らなかったものの、うすら寒い日だった。陽射しはあまりなく、ベランダの水やりも控えた。今年は本当に気候が定まらない。

 

今日は二ヶ月ぶりぐらいに美容院へ。もう2週間以上、家の周りでの買い物以外、出かけていない「引きこもり」状態の上に、この1週間ぐらい、「脳内音楽」現象に悩まされ、半分病人のようだったので、「これではいけない」と一念発起して、出かけたのだった。

 

考えてみると、定期的に会うのは、この美容師さんぐらいのものである。彼女に担当してもらってからまだ1年ぐらいだが、こちらも向こうもあまり無理して話を合わせるのでもない、良い関係になってきたと思う。馴染みにならないと、美容院にいくのも却ってストレスになる。

 

今のところ、少量のトランキライザーでなんとかやっているけれど、これ以上悪くならないよう、やはり定期的に隣の駅ぐらいでも、買い物に行ったり、お出かけしないといけないな、と思った。

 

朝はとかく、とくに夕食の頃になると食欲がまったくなくなり、したがって料理するのも苦痛になるので、ますます食べなくなって、痩せてしまったが、とはいえ、BMI的にはちょうどよいぐらいかもしれない。

 

今日は帰りにデパートでサラダ風のお惣菜をいろいろ買って、食べたのだが、驚いたことに、そういうのは食べられた。つまり、自分のつくったあまり美味しくないものは、

体調不良のときは食べられないのだなあ、と。

 

食欲がないということはめったにないことなので、ともかくおいしそうなものを見つけて、なんとか食べていかないと、と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

猫の島

明日にかけて全国的に大雨という予報で、関東地方はあまり影響がなさそうだが、九州あたりはもうかなり降っているらしい。もうそんな季節になったのだなあ、と。

 

今朝は、石巻の沖合にある猫の島「田代島」をテレビでレポートしていた。知らなかったが、猫好きの聖地ともいわれ、外国からも観光客がやってくるのだそうである。今朝の番組でも、アメリカからやってきたという青年が、もう何回目かになると語っていた。

 

猫たちは自由に島のなかを往来し、港で漁師さんたちにとれたての魚をもらっておいしそうに食べている。それも、売り物にするもののなかから、ひょいとつまんでもらっているので、たいそうぜいたくである。

 

しかし、のんびりとして見えるこの島も、東日本大震災では津波の被害をもろにかぶり、漁船は壊れ、港も破壊されてしまった。東北全体で、復興工事のため建設関係の人手不足が深刻で、ここの港も半壊したようなままの姿で、手当が間に合わない状態である。

 

おじいさんの漁師さんがインタビューに答えていたが、重い口調で、「震災のときのことはあまりしゃべりたくないんだわ」と言いながら、沖合をじっと見つめていた。

 

この漁師さんも以前は港でいつも10匹ぐらいの仲良しの猫に魚をあげたりしていたのだそうである。

 

それが津波で漁師さん自身も流されて九死に一生を得たのだが、猫たちも行方不明になったのだという。

 

「みんな昼寝してたんだと思うんだよね。仔猫もいたんだ…」

 

ちょうど午後2時半ぐらいだったから、そうなのかもしれない。漁師さんの顔が翳る。

 

津波のあとしばらくして、真っ黒な猫がこの一人暮らしの漁師さんの家にきて、居つくようになったのだという。

 

「親猫が死んだもんだから…」と漁師さんはいっていたが、真っ黒で目だけがピカピカしているので、「フクロウ」と呼んでいるのだという。撮影の朝、漁師さんは自分のおかゆをつくって食べており、フクロウには、まぐろのブツ切りがどんぶりに盛られて

差し出されていた。

 

猫のほうがいいものを食べてますねえ、などと、レポーターが言っていた。

 

漁に出かける漁師さんのクルマを「フクロウ」はいつも途中まで追ってきて、お見送りするのだそうである。

 

「フクロウ」はずっとクルマの後ろ姿を見つめていた。

 

震災はひとのこころにも、動物たちのこころにも爪痕を残したが、新しい出会い、生活もまた生まれたのだなあ、と、こころに響く映像だった。

 

整理する

暑さがひどかった昨日、一昨日とは違って、風が爽やかな日。

 

シダのような雑草が生えて困っていた鉢の土を処分した。あと、二鉢ぐらい枯れた鉢があるが、土を一度にゴミに出しても重くて目立つので、少しずつ、と考えて。

 

今はラヴェンダーとゼラニウムが真っ盛り。

 

季節の入れ替えで洗濯をしたりとか、それなりに忙しい。来週ぐらいからは、不要な衣類をきちんとリサイクルしてくれて、引き換えに、そこの洋服購入のクーポンをくれるというキャンペーンが始まるので、供出のために、整理やアイロンかけとかをしなければならない。クリーニングをするのが基本条件なので、結構厳しいが、そのほうがよい。

 

衣類のリサイクルもあまりに扱いが悪い店には「モノを大切にする」という点から出したくないので、このキャンペーンはありがたい。着なくなったものでも、あまりに雑に扱われると、悲しいからだ。

 

そんなに大々的に整理しているわけではないが、先日は、以前お土産にもらったドリームキャッチャーも処分した。ちっとも役に立っていない上に、古びてしまっていたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

危険なループ

このあいだ、電話でおともだちにも話したのだけど、どうも想像や夢の世界での出来事が現実と連動しているようなことがあって、今日はさすがに、「どこかおかしいんじゃないか、自分は」と考えた。

 

私が数回かかったのはいわゆる神経症的なもので(神経衰弱という診断名あり)、うつ病とかではないのだが、単に不安や心配が嵩じているというより、自分のある種の予知的能力(というか傾向)のために、「困ったこと」「カタストロフ」を避けようとする行動が多くなり、そうはいっても、周りに起きるあれこれを完全にコントロールできるわけなどないのだから、だんだん追い詰められてしまう、という、ちょっと特殊なパターンである。

 

また、その予知なるものも、半ば、自分の不安や恐れがむしろ原因になっているものがあるのだが、それだけでなく、純粋に「起きること」を予見できることもあるので、

それを弁別するのが難しく、常に分析したり予測したり、危険を避けたり、で

すっかり神経が疲労してしまうというものだ。

 

今日も、睡眠は十分なはずなのに、ひどく疲れていて、「これをやったら結果はこうなってしまうのでは」とかあれこれ考え出して、「なんだかまずい、これはいつか来た道ではないか」と思ったので、最近ご無沙汰していたトランキライザーの軽いものを飲んだ。

 

しばらくして気分がずいぶん落ち着いて、さらに、とても明るい気分になった。これは抗不安薬だが、気持ちを引き上げる効果もあったりする。

 

結局堂々巡りの思考の果てに、脳自体が鬱状態になっていたのだろうと思う。

 

一番困るのは、時として、現実とリンクして見えてしまうことで、こうした「束縛」にすっかり疲れて、買い物帰りの電車のなかで、「もうなんでも自由にやる。どんな風になってもいい、差し障りがあろうかもしれない、ある国の洋服があるのだが、それも今度着てやる」などと心のなかで呟いたら、その国の人々が電車に乗ってきて、さすがに驚いた。

 

医者に行こうかとも考えたが、よく言って強迫神経症、悪くいくと、もっと重篤な診断をくだされては大変なので、それ以外のところはとても理性的であるわけなので、

医者はやめることにした。

 

以前にも、こういうループにはまったことがあり、アタマで思ったこととか、恐れていることに、どんどん出会ってしまう、といったことがあった。量子力学ではすでに

意識が現実に与える影響といったことはずいぶん前から研究されているわけだが、

ひょっとしてそういう「念」みたいなものが強いのか…とかも考えてみたり。

 

いずれにせよ、軽いクスリでリラックスできたので、脳が興奮状態にあったということではないかと思う。

 

人間は未来がわからないほうがしあわせだ。過剰な未来予報(可能性レベルだからさまざまなパラレルワールド)がわかっても、常に比較考量して行動するなんてことは人間には無理で、それだけでなく、人生、今、を生きられなくなってしまう。

 

結局は、シンプルなことだが、自分の気持ちに正直に、ということに尽きると思う。

 

 

 

 

 

草伸びる

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連休も4日目。大型連休というけれど、1日、2日は結構暦通りの、というか、普通に出勤しているひとが多いように思えた。遠出するより、普通の暮らしでのんびりするほうがいいと思うひとが増えているのでは。

 

桜が終わると、あっという間に、緑が濃くなり、草が生い茂るようになった。この季節は本当に「生命力」というものを感じさせる。まるで、早送りの動画を見ているように、雑草がたくましく日ごとに伸びている。

 

家のなかの雑用はあるものの、とりたてて何かをしようという気にならないので、今朝はぼんやりと窓の外を眺めながら、紅茶を飲んでいた。窓はまるで緑のポスターを貼りつけたように、新緑一色である。こんな具合なので、わざわざ公園に出かける必要もない。

 

最近、SalingerのFRANNY AND ZOOEYをパラパラ読んでいる。

 

これは翻訳だとわからないけれど、驚くほどやさしい英語で書かれており、一部、口語的表現で一瞬「?」と思う箇所も時々出てくるが、読む進むには問題ないし、なんというか、独特の軽やかさ、シンプルさのある文体である。

 

このグラース家のひとびとをスノッブだと思わないひとはいないだろうが、それにしても、「巡礼の道」などの形而上的問題を、軽妙で且つリアリティのある文章で紡ぎ出していることは、驚くばかり。

 

村上春樹も形而上的テーマをよく扱っているが、彼がどんなに頑張っても、「カッコつけ」のレヴェルを超えない。

 

サリンジャーはそういう意味では偉大な才能なのだろうけど、それを生み出した、複雑なパーソナリティや環境、さらに人生経験があってこそ、生まれたものなのだろう。

 

うらうらと陽光の差し込む黄金週間の午後。

 

 

 

 

ほんとうは

 

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八重桜は葉桜だが、まだかなり残っている。1週間ほど前はほんのすこしの緑だったケヤキが青々と茂るようになった。アカツメクサヒメジョオンが可憐だ。

 

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このあいだ、思い切っておともだちに電話したのだけど、それは「いつ帰ってくるの?」と聞くためだった、ほんとうは。もちろん、最近の具合はどうなのかは気になってはいたが、一番聞きたかった、言いたかったのは、それではなかった。

 

雪が融けたらというのが、去年の秋ごろの話だったのだが…。

 

帰ってきたら、顔を見てゆっくりと話したい、いろいろなことをと思っていたのに、うまくそれを伝えられなかった…。話は違う方にいってしまった。

 

自分のなかに、無理を言ってはいけないという気持ちもあって、本当の気持ちを押し隠してしまったのだった。