昨日は、自分しか見れないような設定にしてしまっていたことに、夜中にふと気づいて、慌てて、修正を入れたのだった。

 

夜中に気づいたのも、動悸がひどくてなんだか苦しく寝られず、クスリやレメディーを飲んで、輾転反側していたからだった。そうしたときに、ふとその誤りに思い当たったのだった。

 

それでも、読んでもらえるかな、それとも、クローズされていたときにきて、気分を害してもう読まれないかもしれないと懸念したが、これ以上は自分でもどうにもならないし、あまりに煩悶して健康を害しては、今の一人暮らしが維持できなくなるかもしれない、それが一番困ることだ、と思い、気をとりなおして、眠った。

 

それからは、レメディのせいか、ぐっすり眠れて、また、朝も気持ちよく、落ち着いた気分で6時ごろに起きたが、正直、ブログのアクセスを見るのが怖くもあったので、

もしだめなら仕方がない、設定を誤ったのは自分のミスだし、それはそれとして、自分を責めず、別の人生を生きていこうと、内心でセーフティネットを張ったのだった。

 

実際、いろいろな関わりができると、おかしなことが起こったりして、歯医者にもいけず、母にもめったに会わず、それ以外、会うひともおらず、話す人もいないという、

ある意味、制約の多い、奇妙な暮らしを送っているからである。

 

とはいうものの、それをやめたときに起こることに関する心的ダメージの大きさは、時々夢で警告としてあらわれるし、自分でも感じるので、制約が多くても、そちらを選んでいるわけだった。

 

夢では、それは「山」としてあらわれることがあり、実際、精神的に限界に近かった

6月ごろだったかには、「山を降りる」選択、そしてそこで起こるらしいこと、などが感じられたりした。

 

今朝は、一種の「こころの防衛」つまり、こころが折れないように、もうアクセスがないという最悪の場合の仮定をして、その場合は、自由になれるという、防衛機制をはたらかして、カウントを見たのだった。「けっして落胆しないように」と自分で自分を励ましながら。

 

そうしたら、驚いたことに、深夜に頻繁にアクセスされていて、心からほっとしたのだったが。

 

不思議なことに、おともだちは私のこころを読んでいるように、ときどき感じる。それで言いたいのだが、今朝考えていたことは、アクセスされていないことを前提に、

最悪の場合、ダメージを回避してなんとかやっていこう、という、こころの、いわば、

防衛なのであったということである。