流浪の民

いろいろ考えても、どうしてもわからないことがある。「しろいねこ」や、それと一緒にきていた親子の白足袋履きの黒猫は、なぜ10月の23日を最後に突然姿を見せなくなったのか。

 

野良猫なので風まかせ、そんなことで悩んでも仕方がないのだが、ずっと私を悩ませていることなのだ。今やってくるのは、前にもきていたことがある、どら猫風なのが二匹だけ。可愛くないので、相手はしないし、もちろん餌やりなどもしないのだが。

 

「しろいねこ」はあるとき、ケンカでもしたのか傷だらけになってやってきて、草原で休んでいたが、ばったり横向きに倒れて、死んだのかと心配したことがあった。その後、元気になったのだったが。

 

そのころだったか、その少しあとだったか、「しろいねこは図書館でいじめられてあんなになった」というような言葉を夢のなかで見た(聞いた?)のだった。なんのことかと、チンプンカンプンで、猫が図書館に行ったのだろうか、ずいぶん遠いけど、などと考えてみたりしていたものだ。

 

「しろいねこ」は私が野良猫保護活動をしている猫カフェに行った時から来なくなったのだと思っていたけれど、厳密にいえば、その翌日もきていた。むしろ、正確には、その翌々日に国会図書館へ行ったのだが、その頃から来なくなったのだった。

 

そうして、その後、大学の図書館に行ったのだが、その翌日に、不思議なことがあった。猫が原にキラキラ光る白いものが落ちていて、それがまるで「しろいねこ」のようなかたちであり、風でふらっとあおられて横に倒れたのは、いつか傷をして横倒れになったときと、そっくりであったので驚いた。下へ降りてたしかめてみたが、それはもちろん単なるビニール袋だった。

 

猫と図書館はなんの関係もないと思う。ただ、無理やり論理づければ、英語では「9つの命をもつ」といわれる猫が「生命」とか「いのち」のシンボルだとすれば、図書館は

それと対極の世界である。

 

私が図書館へたまたま行ったことが、猫を傷つけたというつもりはないし、まったく合理的ではないけれど、猫が本当に欲しがっていたものは、餌でも、保護活動でもなんでもなく、「愛情」だったのでは、そういう意味ではないかと、今では思うのだ。

 

ある風の強い晩、直してもらったエアコンのレポートハガキを書いていて、室外機の様子をチェックしにベランダへ出たのだが、しろいねこがよく歩いていた側溝に、おなじように白く丸まっているものがあって、思わず、「シロニャン、帰ってきたのね」と言ったが、よく見ると、それはビニール袋だった。

 

が、それはまるで生きているかのように、さらに、しろいねこがいつも通っていた側溝をずっと転がり、風で原っぱに吹き上げられ、そのあたりをぐるぐる回っていたが、それはいつもしろいねこが歩いていた、まさにその足跡に近かったので驚いた。風で宙空にもちょっと浮かんだりして。

 

それはまるで魂が戻ってきたかのようであり、夜の猫が原を楽しんでいるようであった。が、私はさすがに、自分の愛情というか執着がこういう現象を呼び寄せたのではと、少し焦りもした。

 

けれど、それは単純に嬉しいことだった。一回かぎりのことだったが。

 

しろいねこは拾われたのかもしれない。が、それなら、一緒だった(そんなに親しいわけでもない)親子の猫も一緒に姿を見せなくなったのは、なぜなのだろう。猫のトライブのようなものがあって、ゆるいグループがあって、放浪先を変えたのだろうか。

謎は謎のままとどまっているが、なぜか、私には、単なる野良猫の移動だとは思えないものを感じてしまうのであった。

 

「いのち」と「知識」どちらが大切?と尋ねているような。

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