運命

私が都会の奢侈とか執筆業などにもはや惹かれていないということは、このあいだ手紙に書いた通りですが、おともだちは、「そうは言っても長年そういう暮らしをしてきたのだし…」というように思っているかもしれません。

 

今日は自分の書いたものなど、処分用に梱包したのですが、それはもはや私にとって、

あまりにも遠い世界になっているのだなあ、ということを実感しました。

 

最後の仕事が10年前ですから、処分品のなかには、もっとずっと古いものもあり、

いわば青春時代に属するようなものです。

 

特殊な世界で生きてきましたから、そうやってまとめてみると、「ああ、自分は何ほどのものでもないんだな」というのがよくわかりました。

 

特殊というのは商業ベースでの仕事ではないということで、その意味では、ずっと温室のなかにいたようなものなのでしょう。

 

一方で、もし才能があったり、非常に努力していたとしても、「何ほどのもの」になるには、最近思うのは、いわゆる「運」とはちょっと違って、運命的な後押しのような力が必要なのだと思います。

 

私にはその後押しがなかったのだと思います。そういう「運命」に生まれついていたのだというのは家系や家族の複雑さについて夢で知らされて初めてわかったことですけど。

 

夢がずいぶん前に語ったのは、そもそも母が父に嫁したことが間違いのようで、災厄を呼ぶものだったということです。昭和25年のことがすべての誤り、私のさまざまな障害の始まりというから、多分両親が出会ったころのことのように思われます。

 

だからもう、実りのないところに種をまくようなことはすまいと思いました。