手紙

おともだちがどうも私のことを怒っているような印象があって…。なにが原因だろうかといろいろ昨晩から考えていました。

 

このあいだのお皿のことは言葉足らずで誤解を招いたのですが、実際に私のコアのところは都会の奢侈や華やかな生活というものに、今は惹かれているわけでは決してない、ということを改めてお話ししたいと思います。これはおともだちへの手紙のようなものです。

 

長年の編集者生活とか、周囲の環境、また、私自身が「書く」ことが好きでおぼろげにそうしたものを夢見ていたことは、長いあいだの蓄積もあって、あるいは底のほうに残っているのかもしれません。

 

最近、そういった夢をよく見たりするのですが、「えっ、今は違うのに…そんなことは思ってない!」と目覚めることばかり。きっと意識の深いところに眠って、最後の抵抗をしているものが、泡沫のようにブクブク上がってきているのかもしれません。あるいは、変化への無意識の怖れがそれを見せているのかもしれません。

 

けれど、人のせいにするわけではありませんが、これには周囲の人たちの思惑みたいな「意識」も大きく関係しているように思います。実際の接触があるわけではまったくないのですが。有形無形の家系的なものが関係しているように感じます。

 

親族たちは、どうも無意識世界のある種のシナリオによって突き動かされているところがあるらしく、私を平和主義のアクティヴィスト兼分筆家みたいにして、自分の果たせなかった夢を実現させたり、あるいは、それが決して私の幸福につながらず、むしろ破壊的なものになることを知りながら、スケープゴートへの道にいざなっている、邪なものもいるようです。

 

 

彼らは私に、具体的には、元の、シンクタンクのような調査業務をさせたり、執筆の仕事をさせようと意図しているようなので、私はこの冬から本という本には一切手を触れず、何も読まない生活をしています。呼び水にならないためです。

 

教会もいろんな活動(平和とか慈善とかの)の拠点になりますから、そこにも可能性を見ているようで、私はだから教会関係のものも一切目にしないようにしています。もちろん関係者には一切接触しませんし。

 

そうした構図を夢が晩秋ごろから、「親族の陰謀的なたくらみ」として毎夜語ってきたわけです。そのため、大量の資料類を破棄しました。普通にはあっても構わないようなものですが、前職に関係したものとか、自分の書いたものなど、それが呼び水になってはかなわないからです。

 

もう、ほとんど書類や原稿のたぐいはありませんが、最後に残ったものも、来週は破棄してしまおうと思っています。

 

おともだちの怒りはなんでしょう?残滓のようにわずかに残っているものが、おともだちに「彼女はやっぱりそうなんだ、そういう野心があるし、都会でのcivilisedな世界が好きなんだ」と思わせているのかもしれません。

 

それを断ち切ったのは、やはり「夢」の与える情報でした。母とのつながりを絶ったのも、そうでした。そこでの未来は、追い詰められた自分がたぶん自ら死を選ぶといったようなシナリオでした。今の腐敗した世の中で、「本当のこと」を言い出せば、死を招くのは明らかですから。ロマノフ家のことがいい例です。翁の深部に触れることは命の危険を招くという、川への転落の夢もありました。

 

作家になるとか、華やかな世界で活躍するとかの野心のようなものが、今は一切ないこと、また、今はそうしたくびきに自分をいざなっている親族と断絶するために、あらゆる努力をしていることを、おともだちに理解してもらえたら、と思います。