4年ののち

4年前の4月のはじめにここへ引っ越してきた。引き出しを整理していたら、その年の手帳が出てきて「ああ、この頃だったんだなあ」と。

 

札幌を出たのが4月11日。まだ向こうはとても寒くて、空港へ向かうホームで汽車を待っていた時、駅員さんが重そうな冬のオーバーコートを着てホームに立って、連絡灯を掲げたりした姿を覚えている。

 

空港までの車窓も、まだモノクロームの世界だった。

 

着いた東京は桜がちょうど終わったぐらいの頃。

 

それからは、エアコンの取り付けや、網戸の発注などあれこれ忙しくしていたが、その頃、八重桜が咲いていた。

 

取り付け工事の業者さんは父親と助手の娘らしかったが、私が八重桜はなんだか暑苦しくてと言うと、娘さんは、私ぐらいの年になると普通の桜では寂しいというか、華やか過ぎるぐらいがちょうどいいんですよね、と言っていた。そんなに年のいっている感じでもなかったけれど…。なるほど、そういう見方もできるんだなあと思ったことだった。

 

仕事先でふと漏らした、我が身の寂しさ…みたいなものだろうか。この季節がめぐってくると、決まってその言葉が思い出される。

 

どんな華やかな人生を送っているひとでさえ、ふと我に帰れば、あるいは、冷静にひとり静かに座してみれば、人間はみな孤独であり、自分の境涯に差す翳りのようなものを感じる時があるだろう。かんかんと照っていた真昼の太陽にふと影さす瞬間のように。