世間のお花見は今週末がたぶんピーク。私はここの敷地内に桜の大木がたくさんあるので、いながらにしてお花見なのだが、普段はカーテンを閉じているし、今年は気分が鬱屈しているせいか、花を見ても感じるものがない。

 

こんな愚痴や妄想のようなできごとをあれこれ綴っていても、おともだちにとっては迷惑でしかないだろうけど、孤独には慣れたけれど、追い詰められ感が半端でなく、避けるべき暗い未来のあれこれ、防戦でアタマがいっぱいな生活も、来月ではや半年になる。いや、昨年の10月から既におかしなことは続いていた。

 

引きずっている重荷の処分をモノでやっていることになっているようだが、先日の切られた分かれ枝と同じく、何が原因かはわからないが、条件が悪化して、ゴミを出すのも徐々に難しくなってきた。複数個出してはいけなくなったらしい。

 

驚いたのは、セール品のガムテープに貼ってあった小さな黄色のディスカウントシールがあって、値段がハンコで押してあったのだが、何気なく生ゴミのなかに捨てておいたら、夢によれば、それがきっかけでシールが問い合わせの手紙となってしまうのだそうだ。

 

夢のなかでは、その小さなシールに、N津田のマンションの、母が時々立ち話をしていた若いおかあさんの名前がハンコで押してあって、驚いた。私も忘れていたひとだし、

名前を見てようやく、あ、あのひとだ、と気づいたのである。

 

そのおかあさんの大学の同窓生が私の英語学校のクラスメートN女であり、一度N津田の家に遊びにきたこともあった。今はコンタクトもずっとないが、その彼女の友人のアメリカ女性にJがいて、彼女主宰のブッククラブがかつてあり、家にもそれで行ったこともあった。

 

Jは今は夫の転勤でシンガポールに住んでいるけれど、もともと金融業界で働いていたので、妹の息子の仕事上のトラブルについて事情をたずねてやったことがあり、Jの連絡先などは、返信のメールを転送したので、妹も知っているのであった。

 

この三人を辿れば、マンションの住人にも行き当たり、居所をつきとめることもできるだろう。

 

まったく自分も要らない親切をして、自分で墓穴を掘っているわけである。

 

普通ではありえない、ただのシールを普通に捨てたら、こういうシステムが発動するようである。その先は、虜囚の身。

 

解決としては、他のモノに紐で十文字に縛り付けて、処分しなければならないとのこと。

 

ラベンダーの元気がないので、花穂を剪定したらよい感じになったのだが、「ハサミ」は「切る」なので、これも厳禁となった。

 

毎日がこんなふうで、ものすごく神経を使って暮らしている。狂気に近い生活である。

 

今日もまた、「もうだめかもしれない」とスーパーの帰り道思っていたら、引越しのクルマがやってきた。「どうぞ」というわけであったが、銀行で引き出しができなければ引越しもかなわない。もちろん、引越ししてどうかなるものではないので、そのつもりもないが…。

 

私の細い杖、それはもはや信仰だけなのだが、夢のガイドの教えるところは、イコールではないものだし…。そのあたりにも葛藤がある。