私自身はおともだちに対して、「ふたごころ」があるとは毛頭思ってないのだけど、

離れていれば、ちょっとしたこころの揺らぎが大きく伝わって誤解されることはあるのかもしれない、と。

 

このあいだ、二又に分かれた枝が落ちていたことを書いたけれど、自分ではどの道を選択しているかは自明だと思っている。

 

昨日は、別の、二又に分かれた大きな枝が置いてあって、ただ、そのひとつは枝分かれ元で短く切られていて、さらに、枝が出ている幹自体の下の方に垂直な横棒がひとつ添えられていた。

 

横棒はまったく別の方向を示しているように思えた。もとより別の道をとるつもりはないのだが、切られた枝は妙にリアルで、郵便局が使えなくなって、いわば兵糧攻めにあっている今の状態を思わせられた。

 

垂直に新たに添えられた棒は、たぶん、知り合いとコンタクトをとったりして、何か仕事を探し、「食べていく」ことを意味しているように思えた。

 

実際、手持ちの現金でどれぐらい暮らせるかこのあいだ計算したが、「冬眠レベル」を保つために一切料理はできないので、炊いたご飯まで買わなければならず、厳しい状況だ。

 

そんな不安が、きっと「もうひとつの道」を見せたのかもしれなかった。昨日は唯一残っていたスーツを処分した。仕事着風のスーツの処分は私の決意表明だったが、兵糧攻めの不安が決心に揺らぎをもたらしたのかもしれない。

 

「もうひとつの道」は食べるためだけの道で、それが決して自分に幸福をもたらさないことは直感的に分かっている。

 

切られた枝は、旧い、実家の世界。もとより自分の選ぶ道ではない。そこを断ち切り、そこに残る自分のリソースをどうやって切り離すかが分かれ道での課題なのだと。