訃報

そろそろ陽が傾きはじめた。この土地は夕映えの色がきわだって見える。なんとも言えない茜色が建物の壁にゆらめきはじめる時刻。

 

昨日、ピアニストの中村紘子の訃報が流れた。ここ数年闘病していて、コンサートなどもキャンセルが続いていたから、驚きはしなかったが。

 

家のすぐ近くに大中小と三つのホールを持つ、大きなコンサートホールがあって、

その向かいあたりにぱっとしない喫茶店がある。以前入ったときに中村紘子の色紙が飾ってあったことを、昨日通りかかったときにたまたま思い出して、その後病気はどうなのかしらと思っていたところだった。

 

中村紘子のピアノ演奏はテレビでちょっと見たことがあるぐらいで、生では聴いたことがない。

 

というのも、80年代だったろうか。当時好きだったフー・ツォンのコンサートに東京文化会館へ出かけた。もちろんオールショパンのプラグラムだったと思う。

 

時間前に着いて会場の小ホールへ行こうとしたのだが、そちらへ行くひとは少なく、わらわらと集まっている大勢のひとたちが、みな大ホールを目指して歩いているので、誰の演奏会なんだろうとのぞいてみたら、なんと中村紘子のコンサートだったのだ。

 

そのときの衝撃というか、複雑な思いは形容しがたいものだった。どちらも同じショパン弾きとして通っているわけだが、片やロンドンを拠点とし、世界的なピアニストであるフー・ツォンが小さいホールを満席にもできず、一方で、ピアノ界の松田聖子といわれる中村紘子が大ホールをおそらく満席にしている。

 

調べてみると、フー・ツォンは1955年の第5回ショパンコンクールで第3位、同じ時に、第10位に入ったのが田中希代子で、彼女がショパンコンクール初の日本人受賞者なのだが、なぜか日本では、65年の第7回に第4位で入賞した中村紘子が初の受賞者として、認識されているらしい。

 

その間の事情をwikiでは、田中が膠原病で引退を余儀なくされたころに華々しく登場したのが中村だったためと、自らのプロフィールで中村がそう書き続けてきたために、誤認されているということのようだ。

 

中村紘子去って、ひとつの時代が過ぎた感は、たしかにある。紘子氏の母である月光荘画廊のやり手マダムのことなど今のひとは知らないだろう。

 

画材屋だった月光荘があるとき突然、ロシア絵画専門画廊となり、大量のロシアの風景画を売りまくっていた時代がそういえばあったなと、感慨深い。