夢解き

ここしばらく涼しい日が続いている。なんだか昨晩から、右のこめかみが痛んでいる。

 

このあいだパウロについて書いた新約聖書(詩編つき)は、1954年改訳の日本聖書教会のものだが、旧約と新訳両方が入っている聖書ももうひとつ持っていて、これは1955年改訳のもの。これも小学生の頃からの持ち物。

 

こちらの方には、正教会の祈祷書とおそろいで70年代に赤いフェルトのカバーをかけて、使っている。

 

最近旧約のダニエル書を読み始めた。ネブカデネザル王がエルサレムに攻め込んで占領したあと、イスラエルの人々のなかかから、王の血統の者と、貴族数人を連れてくるように命じたところが、最初に出てくる。

 

そのなかで「おや」と思うことがあった。

 

「すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思慮深く、王の宮に仕えるに足る若者を連れてこさせ、これにカルデヤびとの文学と言語を学ばせようとした。そして王は王の食べる食物と、王の飲む酒の中から、日々の分を彼らに与えて、三年のあいだ彼らを養い育て、その後彼らをして王の前に、はべらせようとした」

 

「ダニエルは王の食物と、王の飲む酒をもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。」

 

宦官の長はダニエルにあわれみをもったが、一方で、彼ら選ばれた虜囚が同年輩の若者より健康状態が悪いと王に判断された場合、自分の身が危うくなると答えたので、

ダニエルは宦官の長の家令に、十日のあいだ自分たちに野菜と水のみを与え、そしてのち、自分たちの顔色と王の食物をあたえられた若者たちのそれを比べて、その結果を見てから、自分たちを処遇してほしいと提案したのだった。

 

家令はそれを聞き入れて、十日のあいだ、彼らをためしてみた。十日の終わりに、彼らの顔は王のあたえた食物を食べたすべての若者より美しく、肉付きもよかった。家令は納得して、彼らに野菜を与えることにした。

 

「この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学を知恵にさといものとされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。…… 彼らは王の前にはべることとなった。王が彼らにさまざまの事を尋ねてみると、彼らは知恵と理解において、全国の博士、法術士にまさること十倍であった。ダニエルはクロス王の元年まで仕えていた」

 

このあと、第二章で、ネブカデネザルがその治世の二年目に、不思議な夢を見て、思い悩んで眠れなくなったのを、ダニエルが鮮やかに夢解きをしてみせる話が続いていくわけだが、ダニエルの夢解きの話は当然知っていたけれども、囚われの身となってからの食事の話は今回はじめて気づいたのだった。

 

ダニエルは鮮やかに夢を解いたのみならず、そもそもネブカデネザルが見た夢自体を、あてることができたのだった。

 

王は博士、法術士、魔術師、カルデヤびとを召して、彼らに夢解きのみならず、まず夢自体を告げよ、と無理難題を言ったのだった。

 

「…あなたがたは一致して、偽りと、欺きの言葉を私の前に述べて、時の変わるのを待とうとしているのだ。まず、その夢を私に示しなさい。そうすれば、私はあなたがたがその解き明かしをも、示しうることを知るだろう」と。

 

これは暴君の言葉のようにも思われるが、考えてみると、一理も二理もあって、いわゆる知者たちの時間稼ぎを許さない命令なのであった。

 

法術士たちはこれができなかったため王の怒りを買い、王はバビロンの知者たちを皆殺しにし、ダニエルたちをも殺そうとしたが、ダニエルは危機に対して、しばらくの猶予を王に願った。

 

「それからダニエルは家に帰り、同僚のハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤにこの事を告げ知らせ、共にこの秘密について天の憐れみを請い、ダニエルと他の同僚とが、他のバビロンの知者と共に滅ぼされることのないように求めた。」

 

「ついに夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた」

 

このあと、神を褒め称えるダニエルの讃詞がつづく。

 

さて、このあとの解き明かしも素晴らしいものだが、彼らが虜囚の身になっても菜食の掟を厳しく守っていることにより、こうした力が可能になっている点、もちろん深い信仰ということも当然あるが、を興味深く感じた。

 

新約にも夢や預言の話はたくさんあるが、とりたててそれと食事を結びつけているものはないように感じる。それは「きめごと」とか「おきて」というより、神の声をきくため、神の存在により近づくためであることがわかった。

 

私もネブカデネザルではないが、いろんな夢に悩まされているのだが、とはいえ、これら夢がはっきりといくつかの危険を避けさせてくれたのも事実である。

 

ただ夢の言語はダニエルの解いた夢のように、独特の性格を持っていて、私の場合は、色の体系みたいなものがあったりする。また、何度も同じ警告がないということは、人間の自由意志に干渉しないようになっているのではないかと思う。

 

しかし、これらを見せている主体はどういうものなんだろう、という疑問は今でもある。だから、先日のパウロの言葉のように、知性による吟味をこころがけているし、

なるべく平静に客観視するようにしている。

 

それにしても、この聖書の日本語は簡潔で美しいと思う。長年使っていて、もともと印刷インクがちょっと薄めのが、さらに薄くなってしまっているので、夜などは読みにくいのだが、だいじな宝物である。