時の記念日

今日は時の記念日。朝から暑い。キアゲハが一羽、ベランダのカサブランカにやってきた。また蕾なのに。

 

311以降、金曜日というのはちょっと緊張する日。

 

 閉じこもって本ばかり読んでいるのも健康に悪いので、思い立って、一昨日は午後から、ここから電車で乗り換えは二回だが、四駅ぐらいの近場にある、ゆり園に行ってきた。この季節限定の開園である。前から一度行ってみたいと思っていたのだった。

 

駅から割合近く、坂道を登っていくと、左手遠くには寺の三重塔みたいなものが見え、不動尊のようだ。右手にゆり園があって、3万平米ぐらいの丘陵地に50種45万株のゆりが植えられている。

 

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ゆるやかなアップダウンがあって、ゆりを眺めながら散歩するのにはちょうどいい感じで、全部歩いても1キロぐらい。これは早咲きのすかしゆりということだったが、不思議なことにあまり香りはしなかった。

 

家のカサブランカも今蕾をたくさんつけているが、昨年などは、香りが強くて、ベランダから家の中まで香ってきたものだが、ここのはなぜ匂わないのかは不思議だった。

 

 

個人的には、やはりゆりは白いのが美しいと思う。

 

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ゆりの花とうたった讃美歌にはけっこう好きなものがある。子供のころから馴染んでいた歌。「うるわしの しらゆり ささやきぬ むかしを」とか「わがたましいの

したいまつる イエスきみのうるわしさよ たにまのゆりか…」。

 

わたしがずっと持っている聖書は、11歳の誕生日に母から贈られたもの。日本聖書協会の1954年改訳版なのだが、昔から馴染んでいるというだけでなく、この日本語はどの訳より明瞭で且つ心の琴線に触れるもので、年を経て、ますますそう思うようになった。一見平凡で、別に文語訳のように華麗でもないのだが、過不足ない美しさを感じる。

 

先日、コリント一書のある箇所を探していて、パウロが異言と預言について書いているところに行き当たった。以前も読んだことがあるはずだが、この箇所こそ、私がずっとこの間悩んでいたことに対する、回答だったのだ。

 

14章では、異言と知性の関係が述べられている;

 

「13このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。もし私が異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。すると、どうしたらよいのか。霊でさんびを歌うとともに、知性でも歌おう。…19しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人を教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語るほうが願わしい」

 

 「26 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まるとき、各自はさんびを歌い、教えをなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。もし、異言を語るものがあれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そしてひとりがそれを解くべきである。もし解く者がいないときには、教会ではだまっていて、自分に対し、また神に対して、語っているべきである。預言をする者の場合にも、二人か三人かが語り、ほかのものはそれを吟味すべきである。しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。

…神は無秩序の神ではなく、平和の神である」

 

知性による吟味、それこそ私が探していた言葉だった。改めてパウロの偉大さを思った。