ムクドリと「にがよもぎ」

一昨日は木枯らし一番が吹いて冷え込んだが、今日は陽光さんさんと降りそそぐ、暖かい日。欅は色づき、一輪だけサザンカを見つけた。

 

今住んでいるエリアには、大きな樹木やその下にはらっぱがあって、子供たちの格好の遊び場になっている。夕方にはサッカーやスケートボードに興じている。そこを抜けた一番奥に私は住んでいる。

 

去年もたしか秋だったかと思うが、空が黒くなるほどの鳥が群れをなして、欅の梢と建物の屋上を円を描きながら、集団での移動を繰り返していた。決まって、夕方5時ぐらい、あたりが少しだけ暗くなりかけると始まる。

 

今年も半月ぐらい前から気づいていた。ヒッチコックの鳥ではないが、大樹に何百羽もとまっていると、ちょっと怖くはある。ただ、10メートル以上の巨木と十数回建ての建物の屋上を行き来するだけだから、見た目は不気味だが、実害はあまりない。

 

ところが、2週間ほど前、そのはらっぱの巨木が伐られていた。多分、あの鳥対策なんだろうなあと思った。夕方、買い物から帰って、そのはらっぱの傍を通ると、子供たちと母親たちが群れているので訊ねてみると、今日、木を伐ったので、鳥達がどうするのか見ているのだという。

 

そのおかあさんが言うには、あれはムクドリで、巨木に面している棟は、フン害も酷いし、夜も一晩中鳥達が騒いでうるさくて仕方がないとのことだった。

 

巨木の拠り所はなくなったものの、鳥達はやはりどこかからやってきて、伐られてしまった樹の隣の小振りの木々と屋上のあいだを、往復しはじめた。

 

結局同じことなのじゃないかなと思っていたが、最近はふっつり「襲来」がなくなった。枝をおろされた木が数本、所在なげにしらじらと立っているだけ。

 

それにしても、なぜ、あのような整然とした編隊飛行をムクドリは決まった時間にするのだろう?オーヴァルシェイプの黒い点の集合がまるで柔軟な素材でできたUFOのように、軽い変形を繰り返しながら夕暮れの空を舞うありさまは、それはそれで奇観だった。

 

内陸のこのあたりは、なぜか夕陽が華麗で美しい。同じ首都圏でも他のところでは感じないが、どうしてなのだろう。平原や巨樹に燃えるような太陽が沈んでいく。誰も言わないが「夕陽の国、武州」。関東平野一帯は古墳も多いし、「さいたま」というのは、「さきみたま」の意という説もある。鎮守の森や街道筋に往時を感じる。

 

ノーベル賞を受賞したアレクシエービッチの「チェルノブイリの祈り」を読み始めた。

読み出して、序章になっている消防士の若い妻の話に記憶があった。札幌のキリスト教書店で立ち読みした本で、書名の記憶はなかったのだ。その時も凄まじい印象を受けたのだけど、まさか、あの時のあの本が受賞したとは。

 

この妻の話は、若い健康な消防士の夫をチェルノで失った新婚の妻の嘆きなのだが、悲劇が意図せずして「愛の詩」、文学にまでなっている。あらゆる小説が色褪せるような…。足が腫れて靴なしで埋葬された夫は夢のなかでも裸足である…。

 

近所の本屋で買ったのは文庫なのだが、もとの単行本は美しいイコンが表紙に描かれていた。そちらが欲しいなあと改めて思ったのだが、アマゾンしか出物がなく、ひどく高価であきらめた。アレクシエービッチ女史は日本語で6冊ぐらい翻訳が出ているらしく、英語圏では三冊ということで、この単行本の美しい造本も他国にはなく、その点に感銘を受けた。